職場のパソコンにログインするためのパスワードを失念してしまったらしい。
   正しく打ち込んでいるはずなのに、何回やってもログインできない。
  「ユーザー名またはパスワードが違います」
   ――これだ。
   まず、「または」という部分が気に食わない。
   私のパソコンなんだから、ユーザーは私に決まっているじゃないか。素直に「パスワー 
  ドが違います」と出してくれればいい。
   それなのに、思わせぶりに「または」ときたもんだ。もしかしたら、パスワードは合っ 
  ているんじゃないか――? そんな淡い期待を持たせる。
   しかし、そもそも、このログイン画面にはユーザー名を入力する欄が見当たらない。ビ 
  ル・ゲイツには一言、苦情を言わなければならない。
   それにしてもパスワードが思い出せない。
   こんなことになったのは、先週の金曜日にシステム担当の人間が「月が変わるのでログ 
  イン用パスワードを変更してください」とかなんとか言い出したせいだ。おかげで、週が 
  明けたら新しいパスワードをすっかり失念してしまった。
   私は悪くない。二日も経ったのだから仕方がない。
   慣れない手つきでキーボードを打つ。
   画面を眺める。
   パスワード入力欄に、私が打った文字が並んでいく。
   いや、並んでいかない。
   並ぶのは●●●――。●ばかりだ。
   この●も気に食わない。これでは、パスワードが違うといわれても、今、自分がなんて 
  打ったのかがわからない。
   頭にきて、私はエンターキーを思い切り叩いた。
   おっ、おっ、おっ――。
   ついにやったか?
   マウスポインタが待ち状態に変わり、くるくると回りだす。
   おっ、おっ、おっ――。
  「ユーザー名またはパスワードが違います」
   ――これだ。
   天を仰いだ私に、左前の席に座っている部下のしまなつが話しかけてきた。
  「どうかなさいましたか? 部長――」
  「ん? いや、パソコンの調子がおかしくてね」
  「システムの人、お呼びしましょうか?」
   千夏は気を利かせて私に言ってきた。
  「悪いね」
   私がそう言うと、千夏は受話器を手に取り内線に繫いだ。
  「――お疲れ様です。嶋田です。松崎まつざき部長のパソコンがおかしくなっちゃったみたいで、 
  お手数ですが来ていただいてもよろしいですか? あ、大丈夫ですか? お願いします。 
  すみません――」
   千夏は丁寧に受話器を置くと、私に大森おおもりさんが来てくださいます」と言った。
   やがて、大森がやってきた。
   大森は、いかにもIT系といった風体の男である。
   こっちが背広でネクタイまで締めているというのに、この男はカジュアルである。
   客先に行かないのだから、それは、まァいい。
   だが、センスが悪い。
   毎日、毎日、チェック柄のシャツで出社するのはやめろ。
  「どうしかしましたか?」と大森は私に言った。
  「ログインできないんだよ」と私は答えた。
  「ちょっと見ていいですか?」
   大森はキーボードを自分の方に傾けて、ログイン画面がキー入力を受け付けるかどうか 
  を確認したようだった。
  「え? おかしくなったっていうか、パスワードを忘れたってことですか?」
   大森が小馬鹿にしたように言った。
   IT系はこういうところが気に食わない。
   少しパソコンができるだけのことを鼻にかけて、人を見下した態度を取る。
   そのくせ、女子社員にはやたらと優しい。時折り、マウスと間違えたふりして手を握っ 
  たりする。
  「金曜日、パスワード変えましたよね。古いの打っているんじゃないですか?」
  「ちゃんと新しい方を打っているんだよ。だから、早く何とかしてくれ。このままだと仕 
  事にならない」
  「管理者でログインすれば、変えられますけど――」
  「変えてくれ」
  「セキュリティの関係で他人のマシンにログインする時には書類申請が必要なんですよ。 
  僕には管理者権限がないので――」
  「申請してくれ」
  「でも、書類にはむら部長か早坂はやさか課長の判子が必要なんですが、まだ二人とも見えていな 
  いんですよね――」
   ――これだ。
   IT系は時間にルーズすぎる。
   もう九時二十分だぞ。
   つまり――、私は二十分以上、パスワードを間違え続けていることになる。
  「どうすればいいんだ?」
  「二人が見えるのを待つか、パスワードを思い出すしかないですね」
  「何時に来るんだ?」
  「わかりません」
  「村瀬部長は体調不良で午前休のようです」と千夏が言った。
   勤怠連絡のメールを調べてくれたらしい。
  「午前休? 早坂課長は?」
  「――今日は代休だそうです」
  「ああ、先週の深夜作業の分だ」と大森が納得したように言った。
   だが、私は納得できない。
  「じゃあ、俺は午後まで仕事できないの? ありえないだろう」
  「――パスワード、思い出せませんか?」
  「思い出すも何も、ちゃんと打っているはずなんだよ」
  「それなら、変える時に打ち間違えたのかな――」
   大森は困ったように頭を搔きながら言った。
  「でも、変える時には二度打ちますよね?」と千夏が口を挟んだ。
  「そうなんですよね――。コピペとかしました?」
   大森は疑うように言った。
  「そんな横着するもんか。ちゃんと二度打ったぞ」
  「Caps Lock かな――。パスワード変える時に警告出ませんでした? Caps Lock キーが 
  オンになっていますって――」
   大森は Caps Lock を押して、実際にそのメッセージを私に見せた。
  「そんなもん出てない」と私が言うと、大森は考え込んだ。
  「あ、古いパスワードは試しました?」
   思いついたように大森が言った。
  「だから、金曜日に変えたんだよ。それでわからなくなっているんだろうが」
  「でも、古い方を試しに一回打ってもらっていいですか?」
   大森に言われて、私は渋々古いパスワードを打った。
   無駄なことだとわかっているので、いかにも面倒くさそうに私はエンターキーを叩いた。
   ――ログインできた。
  「多分、パスワードを変えたつもりで、最後にキャンセルボタンを押したんですね」
   大森はまた小馬鹿にしたように私に言った。
   私は舌を打った後、「タバコ吸ってくる」と言い残して、ログインに成功したばかりの 
  パソコンをロックして席を立った。
   千夏が「ありがとうございました」と私の代わりに大森に笑顔で礼を言った。
   大森は鼻の下を伸ばしながら、千夏に「また何かあったら呼んでください」と言うと、 
  私に話す時以上に腰を低くして、二度も頭を下げた後で自席に戻っていった。
   気に食わない。
   タバコルームに入るために、私はドアの暗証番号を打った。
   ピピピッ、という耳慣れない音が聞こえた。
   表示を見れば「パスワードガチガイマス」というメッセージが出ている。
   どうやら、月が変わってパスワードが変更されたらしい。
   まったく、気に食わない。
  
  
   朝の騒動で疲れきってしまった私は、その日は残業をせずに仕事を切り上げた。
   帰り道に、私は早めに帰宅する旨を妻の律子に伝えるために携帯電話を取り出した。
   最近、流行のスマートフォンである。
   部下の女の子とメッセージをやり取りする時には絵文字だって使う。私を小馬鹿にして 
  いた大森も、千夏の番号やアドレスまでは知るまい。私は知っている。そう思うと小気味 
  がよかった。
   しかし、スマートフォンといえば気に食わないこともある。あまり、口うるさいことは 
  言いたくないが、利用者のマナーである。
   歩きながら使っている輩は、まァ、まだ許せなくはない。歩きながら地図を見ることく 
  らいはあるだろう。
   だが、自転車に乗りながら使っている輩。こいつらは早急に取り締まった方がいい。
   ちょうど今、通り過ぎた若者もそうだ。自動車は保険があるからいいかもしれないが、 
  自転車でまかり間違って人でも轢いてみろ。下手したら億単位の金を全額、お前が賠償す 
  るんだぞ?
   自転車なう、とかやっていたがために人生終了だぞ?
   人生終了なうだぞ?
   まァ、お前の人生が終了するのは勝手だが、せめて、私だけは轢いてくれるな。
   だから、私はスマートフォンを操作する時は、なるべく、邪魔にならない場所で立ち止 
  まることにしている。
   シャッターの閉まった店の軒下に入って、私はスマートフォンのロックを解除しようと 
  した。
   スマートフォンがブルブルッと震えた。
  「パスワードが違います。もう一度試してください」
   気に食わない。
   私はもう一度パスワードを入力してロックを解除した。
   律子の携帯に電話をかける。
   呼び出し音が鳴る。
   呼び出し音が鳴る。
   呼び出し音が鳴る――。
  「あなた、どうしたの?」
   ようやくのように律子が電話に出た。
  「ああ、律子。今日は早めに帰ることにした。夕食を作っておいてくれ」
   私が言うと、律子は少しの間、押し黙った。
  「――今夜は遅くなるって言ったじゃないですか」
  「予定が変わることだってある」
  「――わかりました。準備します。今度からはもう少し早めに連絡くださいね」
   律子はそう言って、一方的に電話を切った。
   まったく、気に食わない。
  
  
   家に帰ると、めかし込んだ律子がいた。
  「なんだ、出かけるつもりだったのか?」と私は尋ねた。
  「――今日は遅くなるって聞いていましたので。でも、お断りしました」
  「言ってくれればよかったじゃないか。どこかで食べてきたのに」
  「そうも行きませんよ」
   律子は機嫌が悪いようだった。
   それで、私は久しぶりに律子を愛してやることにした。こういうことは仲違いをしてい 
  る時ほど燃え上がるものである。
   食事を終えた後、風呂から上がった律子を、私は強引にソファの上に押し倒した。
  「え!? ちょっと、やめてください!」
   律子は驚いた声を上げた。
  「いいだろう? 久しぶりに――」
   私は律子の上に覆いかぶさりながら、彼女が体に巻いていたバスタオルの上から体をま 
  さぐった。
   律子は必死で抵抗する素ぶりを見せたが、男の力には及ばない。結局、私に火照った体 
  をゆるすことになった。
   若い千夏の体ほど締まってはいないが、よく馴染んだ律子の体も悪いものではない。
  「どうだ? 律子。よくなってきただろう?」
   私は体の下に組み敷いた律子に尋ねた。
   律子は涙を浮かべながら首を横に振ったが、私はそれを嬉し涙だと受け取った。
   律子の首筋に唇を這わせた後、私は彼女の耳元で囁いた。
  「愛しているよ――」
   すると、律子が言葉を返した。
  「ユーザー名またはパスワードが違います」
   私は耳を疑った。
  「おい、何を言っているんだ――?」
  「ユーザー名またはパスワードが違います」
   律子は私の問いに答えずに繰り返した。
  「どうしたんだ? 愛している、と言えば以前は動いてくれたはずのに――」
   しかし、律子は「ユーザー名またはパスワードが違います」と繰り返すばかりだった。 
   待てよ、と私は思った。
   律子は今夜、いつになくめかし込んでいた。
   私の帰りが遅いのをいいことに、律子は浮気をするつもりだったのだ――。
  「ユーザー名? ユーザー名だと!? お前のユーザーは私に決まっているだろう! 俺の 
  他に誰がいるんだ!」
   私は律子の顔面を容赦なく殴りつけた。
  「さては、他の男と寝やがったな! 売女ばいた! 売女! いったい、俺の他に誰をログイン 
  させたんだ! 言ってみろ! 言え! このビッチが! お前はビッチだ! 豚だ! 糞 
  ったれ!」
   感情の赴くままに、私は執拗に律子を殴りつけた。
   何度も。
   何度も。
   何度も――。
   気がついた時には、律子はぐったりとして動かなくなっていた。
  「律子――?」
   私は腫れ上がった律子の頰を軽く叩いた。
   反応がない。
  「おい、律子。しっかりしろ! 目を開けてくれ――」
   私は青ざめながら、懇願するように言った。
   すると。
   律子が口をパクパクと動かした。
   初めは聞き取れなかった。
   私が注意深く聞き耳を立てると、律子はこう言っていた。
  「ユーザー名またはパスワードが違います」
   私はもう一度、律子を殴りつけた。
   それで、律子は完全に沈黙した。
   ナイトテーブルの上に置いて充電していたスマートフォンのケーブルを荒々しく引き抜 
  いて、私はすぐに電話をかけようとした。指が震えてうまく入力できない。
  「パスワードが違います。もう一度試してください」
   私はスマートフォンを床に叩きつけた。
   タッチパネルに亀裂が入った。
   ぜいぜいと大きく息を切らしていた私は、深呼吸をして、一度、冷静になった。
   落ち着け。まずは電話だ。電話をしなければならない。
   地面に叩きつけたばかりのスマートフォンを拾い上げて、亀裂の入ったタッチパネルを 
  操作してみた。
   動作には問題がない。
   ロックを解除した私は、サポートに電話をかけた。
  「はい、ラブソリューション製品サポートです」
   電話口からオペレータの声が聞こえてきた。
  「松崎というものだが、先日、買ったダッチワイフが動かなくなってしまった。すぐに交 
  換してほしい」
   しかし、私の言葉を無視してオペレータは続けた。どうやら、音声ガイダンスだったら 
  しい。
  「お買い上げになった製品に関するお問い合わせは1を、その他のお問い合わせは2を押 
  してください」
   私は1を押した。
  8桁の製造番号を押してください」
   私は律子を裏返して、首の後ろの番号を入力した。
  4桁の暗証番号を入力してください」
   私は記憶を辿って、暗証番号を入力した。
  「製造番号または暗証番号が違います。大変お手数ですが、もう一度、お電話をおかけ直 
  しください」
   通話が終了した。
   私はもう一度、スマートフォンを床に叩きつけると喚き散らした。
   サイレンの音が聞こえた気がした。
   その音が外から聞こえてくるのか、頭の中で鳴っているのかよくわからなかった。
  
  
   精神病棟の灰色の壁に囲まれた病室の中に私はいた。
   ドアロックのタッチパネルの前で、私はしきりにでたらめな番号を入力し続けていた。 
  「パスワードガチガイマス」
  「パスワードガチガイマス」
  「パスワードガチガイマス」
   何度、入力してもドアが開かない。
   パスワードがわからないままでは一生、この部屋に閉じ込められかねない。
   ダッチワイフを破壊しただけなのに、私はどうして、こんなところに閉じ込められなけ 
  ればならないのだろう――。
   どうにかして、この病棟から抜け出さなければならない。
   もっとも、私にできることといえば、パスワードを打ち続けることだけなのである。
   私は以前とは比べ物にならないほど素早くなったパネル操作で、思いつく限りの暗証番 
  号を入力した。
   これだけ速く打てれば、もう大森から馬鹿にされることもない。
  「パスワードガチガイマス」
  「パスワードガチガイマス」
  「パスワードガチガイマス」
   駄目だ! パスワードが違う!
   こんな息苦しい部屋にはもう一秒たりともいたくはないのに、なかなかドアが開いてく 
  れない。
   家では律子が私の帰りを待っているはずだ。いや、あれは破壊してしまったんだった。 
   職場では上司の私がいなくなって千夏が困っているだろう。いや、あれも破壊してしま 
  ったんだった。
   まァいいさ。どちらも、たいした問題じゃない。
   また、新しいダッチワイフを手に入れればいいだけのことだ。街を歩けば、その辺に転 
  がっているかもしれない。
   私は気を取り直して、何千回目かのパスワードを入力した。
  「ニンショウシマシタ」
   ガチャリ――、とドアが開いた。
   なんだ。開いたじゃないか。
   私はすっかり爽快な気分になって街に繰り出した。
  
                                       終わり