別れたばかりの女房が、夜ごと私の枕もとにやってくるようになった――。
  
  
   このたび、30年間連れ添った律子と正式に離婚した。先月のことだった。
   離婚などというあまり格好のよくない結末を見るに至った、そのさしたる原因は何かと 
  き訊かれても、今はちょっとうまく答えられそうにない。
   夫婦間に亀裂を入れる特別な出来事があったわけでもない。浮気だとか、そんなキザな 
  ことをするような私でも女房でもなかったから。
   私たち夫婦は、共同生活を営む上での努力だとか、相手を思いやる心だとか、そうした 
  ものが互いに少なからず欠落していたに違いない。そして、その積み重ねが、私たちを少 
  しずつすれ違わせたのだろう。
   知らず知らずのうちに育てた夫婦間の溝は、私たちが気づいた時にはすでに修繕の効か 
  ないような深さになっていた。
   いや、もしかしたら努力次第で、あるいは何とかできたのかもしれないが、私たちには 
  その気力すら欠けていたのだ。
   離婚するにあたって、もともとそう多くもない財産を分け合ったので、悲しいけれど余 
  計に少なくなってしまった。
   包丁とかまな板とかホーロー鍋とか、そういった調理器具一式は全部律子に譲った。私 
  が持っていても豚に真珠というか――、いや、確かに真珠にたとえるほどの高級品ではな 
  い。けれど、それを言ってしまえば、私だって豚じゃない。
   掃除機も、洗濯機も、冷蔵庫も、テーブルも、食器棚も――、みんな律子にあげた。
   扇風機もストーブもコタツも、あまつさえエアコンまでも持っていっていい、と私は言 
  った。
   夫婦共働きだったから、それほど律子の行く末が気にかかりはしなかったけれど、自慢 
  じゃないが私の方が稼ぎが多かったものだから、彼女が一人で生活する上で最低限必要な 
  ものは、できるだけあげようと私は思っていた。
   律子の方も素直にそれに従った。意地を張っても始まらない、と思ったのだろう。
   その代わりに、あまり映りはよくなかったがテレビと、律子もお気に入りだったCDコ 
  ンポは私が貰えることになった。携帯を持っていて使わないから、という理由で電話もく 
  れた。
   洋服やタンス、それに布団なんかは、それぞれ自分のものがあるから問題はない。
   私たちは子供をつくらなかったから、親権のことでもめることもなかった。
   慰謝料も請求し合わなかった。
   そういう意味では、あまり波風の立たない離婚劇だったのかもしれない。
   離婚届は、二人で肩を並べて市役所に持っていった。
  「今から他人になるのね」
   そう言った律子の口ぶりは、あまり実感がわかないという感じに聞こえた。
  「そうだね」と私はうなずいた。
  「でも、結婚って紙切れ一枚に始まって、紙切れ一枚に終わるものなのね」
   律子はそう言うと、少しだけ寂しそうに笑った。
   紙切れ一枚に始まり、紙切れ一枚に終わる。
   それは、何だか言い得て妙だなァ、という気がして、私は今でもその台詞をハッキリと 
  覚えている。
   住み慣れたマンションを引き払い、私の方は築ン十年と思われるアパートに移り住んだ。
   律子のその後の消息は知らない。別に知りたいとも思わなかった。それほど魅力的な女 
  でもなかったから、未練などこれっぽっちもなかった。
   だから、夫婦生活がダメになったことにも、格別後悔なんてなかった。
   念のために断っておくが、決して強がりでも負け惜しみでも何でもない。甘い夢から覚 
  めて久しい私たちが、今さらながらとはいえ、別々の人生を歩き始めたことは、私にとっ 
  ても律子にとってもそう悪いことではなかろう。
   まァ、30年という歳月は、寄り道にしては少し長すぎたかもしれないが。
   とにかく、これから始まる独りきりの気ままな生活に、心を弾ませているつもりだった 
  のに。
   私は、なぜ毎晩のように、律子の夢を見なければならないのだろう。
   夢の中で私はいつでも律子に、自分でもなぜだかよくわからないのだが、とにかく執拗 
  に謝罪している。股関節が脱臼しないかと自分でも心配になるくらいに、身体の割には長 
  い胴を腰から折り曲げて、律子を前に何度も何度も深々と頭を下げるのである。
   まるで、水飲み鳥にでもなったような心境である。
   律子の方はといえば、化粧を厚く塗りたくった顔に少しだけの悲愴を浮かべながら、押 
  し黙ったまま私を凝視している。
   赤いルージュををさした唇をか噛みしめて、場所はどこだかよくわからないが、とにか 
  く床に視線を落としてうつむいている。
   黒いマスカラで染めたまつ毛は、もしかして涙で濡れていたのだろうか。
   それにしても、夢というのは不思議なもので、普段生活している時は、思い浮かべよう 
  としてもくっきりと像を結ぶことができない律子の顔なども、夢の中では細部にわたって 
  再現されているような気がする。
   夢の中に登場した瞬間から、ああ、これは律子だなと一発でわかる。
   それで、どういったわけか、その光景を丸めた自分の背中の後方からのアングルで見て 
  いるものだから、ハハァ、さてはこりゃ夢だなと気づく。
   しかし、気づいたからどうなるということもなくて、結局私は頭を下げ続けるのである。
   夢から覚めると、私はいつも苦笑してしまう。
   どうして謝るのは私の方ばかりなのだろう。私は根が気弱なものだから、らしいと言っ 
  てしまえばそれまでなのだが。
   だけど、別に私だけが悪かったわけじゃない。
   それは独りよがりなんかじゃなくて、きっと律子だってわかってくれているだろう。
   確かに私は律子を傷つけたかもしれない。けれど、私だって傷ついた。悪いのは、私の 
  方ばかりじゃない。
   けれど、夢の中で謝っているということは、もしかすると私は、心の奥では自分に非が 
  あったと思っているのだろうか。
   律子を夢に見るようになってから、私はしきりにそんなことばかり考えている。
  
  
   何をするにつけても億劫がる私だから、到底自炊しようなどという気も起きなくて、当 
  然ながら外食が多くなった。そうでない日は、近所のコンビニに立ち寄り弁当を買って帰 
  る。
   今晩は後者になった。別に深い理由はない。残業で少し遅くなったせいもあるが、まァ、
  その日の気分で変えるのである。
   それにしても、仕事帰りの中年サラリーマンが、サージか何かであつらえた背広姿でコ 
  ンビニで買い物をしている光景は何とも哀愁がある。我ながら、そう思わずにはいられな 
  い。
   そんな哀愁に惹かれでもしたのだろうか。
   私の訪れを待っていたかのように、棚にひとつだけ残っていた税抜380円の焼き肉弁当を 
  今、この手で摑みかけた、まさにその瞬間、「松崎さん、ですか?」と背後から呼びかけ 
  る声がした。
   振り向くと、青年が一人突っ立っていた。
   色あせたジーンズの丈からすると、少なくとも私よりも足が長そうだった。白いコット 
  ンシャツの上に、流行ものっぽい緋色のジャケットを羽織っていた。
   誰だろう、と私は思った。若い知り合いはそう多くない。
   甥のシンちゃんだったかな。いや、シンちゃんだったら、「もしかして叔父さん?」と 
  か何とか呼びかけてくるだろうから、まず彼ではない。
   誰だかわからないまま、「やァ、こんばんは」と私は足長青年に軽く片手をあげていた。
   足長青年は、「本当にお久しぶりです」とひどく懐かしげな様子である。
   ほほぉ、会うのは久しぶりなのか。いったい誰だったかな、とか思いながら、「いやァ、
  本当に」と私は一応彼に合わせておいた。
   そういえば、シンちゃんには、かれこれもう10年近く会っていないなァ――。
  「今お帰りですか?」
   そう言いながら、足長青年は私が手を伸ばしかけていた焼き肉弁当を、ひょいとつかん 
  でしまった。
   私は、少しだけふくれっ面になっていたようだ。
   その一瞬の表情の変化を読みとって、「あれ、お買いになるつもりでしたか?」と足長 
  青年は焼き肉弁当を棚に戻しかけた。
  「いや、いいんだよ」と私は慌てて言った。
   本当はよくないが、そこまで焼き肉弁当を食べたかったわけでもない。
   私は、税抜350円のイカ焼きそばを手に取った。
   レジのバイトの高校生らしき兄ちゃんに、イカ焼きそばを温めてもらっている最中も、 
  例の足長青年は待っていてくれている。
   いったい何者だろうか――。
   私は内心で首をひねりながらも、「やァ、お待たせしてすまない」と取りあえず足長青 
  年に小さく頭を下げておいた。
  「いえ――。いつもこんな時間なんですか」
  「だいたいこんなくらいだね。まァ、いつもより少し遅いかな」
  「へぇー、大変ですね。僕なんか学生はどうも気楽で――。何だか申し訳ない気がします」
   足長青年は頭を掻いた。
   私は、ずいぶんと人なつこい青年だなァと思った。こういう青年は近頃珍しい。
   しかし、学生なのかコイツ。学生に知り合いがいただろうか。
   いったい誰なのか、余計にわからなくなった。
   もしかして、やっぱりシンちゃんじゃないだろうか。
   シンちゃんは姉の息子で、姉は夫婦別姓に固執するような新進気鋭の人でもないから、 
  姓を改め久保田という。だから、シンちゃんが私を「松崎さん」と呼んでも変ではない。 
   少し変かもしれないが、でもそこまで変ではない。
   そうだ。コイツはシンちゃんだ。
   まずは、探りを入れておくためにも、「しかし――、大きくなったなァ」と私は感心し 
  たように言った。
   シンちゃん(仮)は、「え、何がですか?」と不思議そうに言った。
  「何がって――」
   私は、しまったと思った。やはり最初に睨んだとおり、コイツはシンちゃんの皮をかぶ 
  った真っ赤な偽物だ。
  「何です?」
   どうしよう。今さら甥と勘違いしていたなんて、恥ずかしくて言えない。
   だいたい最初に、「失礼ですが、どちら様でしたか?」と訊いてさえいれば、こんな窮 
  地に立たなくてもすんだじゃないか。
  「ぐ――」
   私は言葉に詰まった。ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。
   いや、実際、そのくらいの音は出ていたわけだが、とにかく、どうでもいいことで噴き 
  出した冷や汗が、タラリと背中を這っていた。
   いったい、どうしろっていうんだ!
   しかし、絶体絶命のシチュエーションは、すぐに終わった。
  「ああ、具ですか? イカ焼きそばの」
   シンちゃんもどきは、勝手に解釈してそう言ったのだ。
  「うん――」
   何だかわからないが、とにかく私は助かったのだ。きっと、日頃の行いがよいからかも 
  しれない。
  「そうですね。前より格段に」
  「だろう」
   そうだったのか。なにせ、イカ焼きそばを買うのは、はじめてだからな。
   私は、コンビニの袋をのぞき込んで、透明プラスチックのパッケージ越しに、焼きそば 
  の具を拝んだ。あまりよく見ないでつかんでしまったのだ。
   しかし――、このゲソどう見てもたいして大きくない。豚肉もこぢんまりしているぞ。 
  これで格段に大きくなったのだとすると、以前はゴミ同然の具しか入っていなかった、と 
  いうことにならないだろうか。
   まァ、そんなことはどうでもいいか。
   ところで、私の住むアパートの目と鼻の先まで来ても、まだシンちゃんもどきは同行し 
  ている。
   さすがに私もピンと来た。
   そうだ、同じアパートの住人だ。よくよく考えてみると、何度かあいさつ挨拶を交わし 
  たこともある気がする。
   崩れ落ちたブロック塀に囲まれた敷地にひっそりと佇むボロアパートの前まで歩いてく 
  ると、シンちゃんもどきは、「それじゃ、僕はこの辺で。お休みなさい」と素通りしてい 
  く。
  「ああ、お休み――」
   私はシンちゃんもどきの遠ざかる背中を見送りながら、「いったいお前は誰なんだ!」 
  と叫びたくなる衝動をかろうじて抑えて立ち尽くしていた。
   奴のことが気になって、今夜は多分眠れなそうだ。
   そうすると、律子にも会わなくて済むのか。
   何だか久しぶりに解放された気分になって、私はアパートの錆びついた階段をスキップ 
  しながら上った。
  
  
   それにしても、白昼夢に律子が訪ねてくるのは珍しい。
  「律子、許してくれ!」と夢の中で叫んだところで私は目を覚ました。
   次第にハッキリしていく景色は、パソコンとスチールデスクの並んだ、どこか殺伐とし 
  た――、何だ、私の職場ではないか。
   いつの間にか居眠りをしていたらしい。
   人の姿があまりないのは昼休みだからか。
   いや、もともとウチの職場の社員は、私を含めて6人しかいないのだけれども、それで 
  も少ない。というか誰もいないじゃないか。
   もしかして私の他は皆、食事に出掛けたのか――?
  「お昼寝ですか? とっても気持ちよさそうでしたよ」
   すぐ隣りで声がしたので、私は心底驚いた。見れば、スーツ姿のまだ初々しいOL二年 
  生、嶋田千夏だった。
  「ああ、嶋田クンか」と私は言った。
   どうも、この呼び方はしっくりこない。
   この前までは、ちぃちゃんと呼んでいたのだが、名字で呼ばないとセクハラで訴えるな 
  どと脅迫されてしまったのである。どうやら最近になって女性蔑視問題に関心を持ち始め 
  たらしい。
   冗談交じりには聞こえたが、あながちハッタリであるとも言い切れないので、私は一応 
  嶋田クンと呼ぶことにした。
  「お昼食べる時間がなくなっちゃいますよ」
   ちぃちゃんにそう言われて、イカしたアナログ腕時計の文字盤に目を落とすと、1215 
  分を回っていた。やれやれ、貴重な昼休みを四分の一も無駄に寝て過ごしてしまった。
  「弱ったなァ――」
  「弱っていないで食べに行ったらどうですか? お弁当買ってくるとか」
  「そうだな。ところで、嶋田クンはもう食べたの?」
  「いえ。今日は電話当番なので」
  「じゃァ、一緒に食べる?」
   私は勇気を出して尋ねた。
  「えぇーッ、おごってくれるんですか?」
  「まァ、いいけど」
  「やったァ♪ 是非ご一緒させてください」
   はしゃぐちぃちゃんを見ながら、若いっていいなァ、と私は心から思った。
   お昼休みを終えた社員がちらほらと戻り始めた頃合になって、私とちぃちゃんは会社の 
  隣りに暖簾を出しているうどん屋に出向いた。
   会社からドアツードアで徒歩10秒である。手っ取り早くていい。
   会社に近くて都合がいいし、味も結構いけるから通い慣れたものである。他の社員も割 
  りと頻繁に利用しているようだ。
   ちぃちゃんと私は、いい具合に古めかしい木製の卓に向かい合って座った。
   緑茶を持ってきた店員さんに、「鴨南蛮ください」と、ちぃちゃんはさり気なく一番高 
  いものを頼んだ。
   私は、とろろそばを注文した。とろろそばが好きなのだ。
   そういえば甥のシンちゃんはソバ粉アレルギーらしい。かわいそうだなァ、と私はしみ 
  じみ思った。
  「ところで、所長――」
   ちぃちゃんは私をそう呼んだ。
   何を隠そう、私は所長という肩書きを持っているのだ。
  「ン、何だね?」
   威厳に満ち満ちた言い方で、私は受け答えた。
  「所長、さっき寝起きに『許してくれ』とか何とか言いませんでした?」
   しまった、声に出していたのか。
  「そ、そうだったかな」と私はとぼけた。
  「ふぅん。じゃァ、リツコさんってどなたですか?」
  「――」
  「奥さんですか?」
   ちぃちゃんは時々鋭い。
   こうなったら、白状するよりない。
  「うん」と私は言った。
   それから、「別れた、ね」とつけ加えた。
  「あ――」
   ちぃちゃんは、口を半開きにしたまま黙り込んだ。
   何だか急にしんみりした空気になってしまった。
   沈黙がしばらく続いた。
   それに耐えかねたのか、「じゃァ、話すのやめておこうかな」とちぃちゃんが先に口を 
  開いた。
  「何を――?」
  「内緒です」
  「何だね。気になるじゃないか。話してみたまえ」
  「どうしようかなァ」
   そう言って、ちぃちゃんは迷っているそぶりを見せながらも、話したいというオーラが 
  全身からあふれ出ている感じだった。
   案の定、ちぃちゃんは、「実はですね――」と語り始めた。
  「あたし、今度結婚するんです」
  「結婚――?」
   寝耳に水というのは、まさにこのことだ。
  「ええ」
   ちぃちゃんは、少し照れながらも元気よく言った。
   私の方は、「そうか――」と重く頷いた。
  「会社――、辞めるの?」
   そう言ってしまって、私はすぐに後悔することになった。
   女性蔑視の問題に凝っているちぃちゃんの前において、それは禁句だったのである。私 
  の言葉が、ちぃちゃんの熱いハートに火をつけてしまったのである。
  「いいですか、所長。女性の場合は結婚イコール退職だっていう考え方は、よくない考え 
  方ですよ。女性に対する偏見です。もう時代は変わったんですよ。確かに、今まではそれ 
  がある意味当たり前だったから、女性は仕事に対する責任感が欠けているみたいに思われ 
  がちで、例えば大きな仕事を任せてもらえなかったりとか、例えば男性に比べて昇進が遙 
  かに遅かったりとか、そういう差別ができあがってもそれほど不思議じゃないですよね。 
  でも、もうそういう時代じゃないんです。そうでしょう? もちろん、未だにそういう女 
  性も少なからず存在しているのは事実ですけど。それは私も認めます。同じ女性として残 
  念なことですが、そういった一部の女性のために、女性全体の立場も軽く見られてしまっ 
  ているのが今の現実です。女性の敵は女性とも言われているくらいなんですけど。でも、 
  一部の女性がそうだからといって、それを全ての女性にまで一般化してはいけないはずで 
  すよね。そうでしょう? こんなにも多くの女性が社会進出をしている今の時代において、
  男性側の方もそういった女性に対する偏見を改めていくことが求められているのです――、
  って聴いてますか、所長!」
   よく息が続くなァ、なんて別のことを考えていた私は、ちぃちゃんの切り返しをくらっ 
  て少し慌てた。
  「よ、要するに、会社は辞めないんだね」
  「そうです」
   ちぃちゃんは力強くうなずいてから、しゃべりすぎてカラカラになった喉を緑茶で潤し 
  た。
   そうか、ちぃちゃん結婚するのか――。
   幸せになれよ。私は心からそう祈った。
   その祈りは、いつの間にかとろろそばが早く来ないかなァ、というものにすりかわって 
  いたのだけれど、それはちぃちゃんには内緒だったりもする。
  
  
  「僕ね、学生の分際で、なんて笑われそうですけど――」
   シンちゃんもどきが、いささかめいてい酩酊気味の、ろれつの回らない口調で私にそう 
  語りかけてきたのは、近所の何とかという飲み屋での一幕だった。
   この前の久しぶりの再会から数えてちょうど一週間ほど経った日に、またまた仕事帰り 
  にバッタリ出くわしてしまったのだ。
   シンちゃんもどきは、私に相談したいことがあるとか何とか言っていた。
   未だに正体不明とはいえ、シンちゃんもどきはなかなかい奴だから、飲み屋に誘って 
  話を聞いてやることにした。
  「僕――、結婚するんですよ」
   結婚と聞いて、私は内心ドキッとした。
  「おい、まさか、ちぃちゃんじゃないだろうな」
   焼酎をあおりながら、私は勘ぐるように言った。コイツには、ちょっとちぃちゃんは任 
  せられないぞ。
  「誰ですか、その子」
  「いや、私の部下でね。今度結婚する子がいるんだよ。嶋田クンっていうんだ」
  「知りませんよ」
   シンちゃんもどきは苦笑した。
   まァ、そんな偶然があるはずもないか。タイムリーな話題だから、私もまさかとは思っ 
  たが、つい気になって訊いてしまった。
  「大学の後輩の女の子なんですけど。僕のプロポーズを受けてくれたんです。友人なんか 
  には、『そんなに早く人生を決めちまっていいのかァ』なんて冷やかされもしましたけど。
  でもね、松崎さん。僕は、希菜子を愛しているんです。希菜子なら一生愛していけると思 
  うんです」
   シンちゃんもどきは、とても素面では言えないような台詞を吐いた。おかげで聞いてい 
  るこっちの方が思わず赤面しそうになった。まァ、実際、その頃には私もすっかりぐでん 
  ぐでんになっていたので、顔なんてとっくの昔に真っ赤だったのだが。
   しかし、希菜子という子に対する愛が満ちあふれている感じが確かにあった。言葉ひと 
  つひとつに、愛する覚悟とでもいうか、そんな強い気持ちがこもっていた。
   いつの間にか私は、シンちゃんもどきに30年前の自分の姿を重ねていた。
   30年前、私もそんな風だった。ひたむきで純情だった。お腹も今みたいに突き出てなか 
  ったけど、それは関係ない。
  「一生愛していける、か――」
   私は噛みしめるように、シンちゃんもどきの言葉を繰り返してつぶやいた。
  「ええ」
  「私も、そう思って律子と結婚したよ。先月離婚したがね。一生だなんて、私はあの頃、 
  少し軽く考えていたかもしれない。私には、できなかったんだなァ――」
   私は自嘲気味に少し笑った。
  「僕は違います」
   シンちゃんもどきはムッとしたように、口をへの字に曲げて結んだ。
  「まァ、そうだろうね。あの頃、もしも今の私と同じように、若い私のことをさと諭すオ 
  ヤジがいたとしてもね、やっぱり耳を貸さなかったと思うよ」
   私がそう言うと、シンちゃんもどきの表情が少し曇った。
  「嫌味な言い方をしたね」と詫びてから私は続けた。
  「でもね、私は無責任に君を応援したくはないんだ。だって、そうだろう? 君の愛がど 
  れだけ深いのか私にはわからないし、その希菜子というお嬢さんに会ったこともないから 
  ね。きっとうまくいくなんて、そんな無責任なことは言えないよな」
  「それは、そうですよね」とシンちゃんもどきはうなずいた。
   それから、多少言いにくそうにしながら、「あの、失礼ですけど――、どうして離婚な 
  さったんですか? 本当に失礼ですけど、今後の参考に」と恐縮しつつも私に訊いてきた。
   かなり無礼である。まァ、酒席のことだから大目に見てあげようと私は思った。
  「どうして、か――。どうしてだろうね。一緒にいることが息苦しくなったからかなァ。 
  一緒に暮らすということが、思っていたよりも退屈なことだったんだよ。私たちにとって 
  はね」
  「それなのに、なぜ結婚したんです?」
   不思議そうにシンちゃんもどきは言った。
  「ン? そりゃァ私たちだって、何もはじめからそうだったわけじゃないさ。私たちは恋 
  愛結婚だったから――、三年くらいつき合ったかなァ。それで、この人と一緒に生きてい 
  きたいとか何とか思ったんだ。多分、お互いにそう思ったんじゃないかな。この人と一生 
  一緒にいたいなんてね。でも、今になって考えてみれば当たり前だけれど、三年という短 
  い試験期間を、一生にまで一般化することはできなかったんだよな。若かったといえばそ 
  れまでだけれど、その当たり前のことに気付かなかったんだなァ――」
   飲み屋を出て、千鳥足でねぐらのアパートまで帰る。火照った身体には、冬の冷たい夜 
  風もへっちゃらだった。
   帰り道がてら、全然シンちゃんもどきの相談にのってあげられなかったなァ、と思い返 
  していた私は、何かアドバイスをしてあげなくてはと思った。
  「まァ、何だな。とにかく頑張るしかないよ、シンちゃん」
  「誰ですか、シンちゃんって」
  「まァ、いいから」と、私はシンちゃんもどきの横槍を無視して続けた。
  「いいかい。とにかく頑張るしかないんだ。頑張っても頑張っても報われないことって多 
  いけれど、それでも頑張るしかないものなァ――」
  「はい」
  「一生懸命頑張って、それでダメだったら仕方ないじゃないか。それなら、あきらめもつ 
  くだろう?」
  「そうですね」
   それから、私は神妙な面持ちで言った。
  「最後に、ひとつだけ言っておきたいことがある」
  「何ですか――?」
  「君は――、いったい誰なんだ?」
  「は?」
  
  
   かいつまんで言えば――、いや、かいつまんで言わなくたって、ちぃちゃんが会社を辞 
  めることなったのには変わりない。
   結婚を期にしての円満退職である。
   まァ、何だかんだ言っていた割には、かなり呆気ない幕切れかもしれない。私も、ちぃ 
  ちゃん本人の口からそれを聞いたときには、さすがに目を丸くしたものだ。
   だけれども、私はちぃちゃんのことを、嘘つきなんかだとは思わない。
   ちぃちゃんは嘘をついたわけじゃない。
   確かに、ちぃちゃんは自分の言葉を守り通すことはできなかったのだけれども、それは、
  結果的にそうなっただけの話だ。
   もしかしたら、フィアンセに仕事を辞めて家庭を守ってくれとかって言われたのかもし 
  れない。多分、そうだろう。
   ちぃちゃんは、きっと愛するフィアンセと愛するジェンダー論とを天秤にかけて、それ 
  でフィアンセの方を選んだのだ。
   それが、自分にとって最善の選択だと思ったんじゃないかな。
   私にジェンダー論を機関銃のように浴びせたちぃちゃんも、退職していくちぃちゃんも、
  その時ちぃちゃん自身が最善と思ったことをやったのだ。前後の言動に矛盾が生じても、 
  それは結果的に嘘になったのあって、嘘をついたわけじゃない。
   まァ、そんな風に思うのは、もしかしたら私もそんな嘘つきになった一人だからかもし 
  れない――。
  「離婚するのね、私たち」
   やや切れ長の目を少し伏せながら、律子は私に向かってそう言った。
   なんであんなに寂しそうな表情をしていたのか。まだ私のことを多少なりとも、愛して 
  くれていたのだろうか。
   まさか。私はもう中年のオヤジだ。
   私は離婚届に万年筆を走らせながら、「大丈夫かい? この先やっていけそう?」と律 
  子に尋ねた。
  「ええ。私だってもうすぐ50よ。一人でもどうにだって生きていけるわ」
   そう言った後に、律子はあやふやに笑った。
  「どうしたの?」と私は訊いた。
  「私、確かあなたと婚約する時に、一人ではもう生きていけそうにないって言ったはずな 
  のにね。これって、私、嘘をついたことになるのかしら」
  「そういえば――、そんなこともあったよね。でも、律子。それなら私だって、君を一生 
  愛するだとか君を幸せにするだとか、そんな月並みなことを言った気がするよ。私も自分 
  の言葉を守れなかった。君を一生愛したかったけれど、そんなことできなかったじゃない 
  か。君を幸せにしてあげたかったけれど――、幸せになんかできやしなかった。逆に不幸 
  にしたかもしれないね。だけどね、律子。私たちは嘘をついたわけじゃないよ。少なくと 
  も、あの頃は本気でそう思っていたよ。そうできるとも思っていた。君も一人では生きて 
  いけないと、本気でそう思っていたんだろう? 結果的に嘘になっただけさ。嘘なんかつ 
  いてやしない。強いて言うなら、先見の明がなかったってくらいさ」
  「そうね」
   律子は少し安心したような、そんな溜め息をホッとついた。「でも、30年も続いたんで 
  すものね。そう考えれば、よく頑張った方よね、お互いに」
  「まァ、ほとんどは惰性で続いたようなものだったけれどね」
  「でも、結婚ってそういうものなんじゃない、きっと」
  「そうかもしれないね。ほら、君も名前を書いて」
   私は離婚届と万年筆を、今日では律子の所有となったテーブルの上を滑らせるようにし 
  て彼女に手渡した。
   律子は離婚届の上に自分の名前を、一点一画に何か思いでも込めているかのように、ゆ 
  っくりと万年筆を動かしていた。
   ふと何か思いついたように、律子はその手を止めた。
  「ねぇ、貴方。私と結婚したこと後悔している?」
  「どうだろう、わからないよ」
  「そうよね。そんなことわからないわよね。それに今さら後悔しても遅いもの」
  「君は少し後悔している感じだね。その口ぶりからすると」
  「そうね――。この幕切れを知っていたなら、私は貴方とは結婚しなかったと思うから」 
  「そうだよな。それは私も同感だな」
   私はしみじみと頷いた。
  「ねぇ、貴方。どうして私たちは、うまくいかなかったのかしらね。私たち――、何がい 
  けなかったのかしら?」
  「さァ、どうだろうね」
  「子供がいたら違ったのかしら?」
  「そんなこともないと思うけど。本当にどうしてうまくいかなかったんだろうね」
   私がそう言った途端に、律子が、「そうか、わかったわ」とつぶやいた。
  「え?」
  「うぅん、そうじゃないの。うまくいかなかった理由はやっぱりわからない。でも――、 
  あのね、つまり、逆に考えてみればいいのよ。私たち、恋人としてつき合っていた頃はす 
  ごくうまくいっていたと思うの。何でうまくいっていたのか、それを考えてみない?」
  「なるほど、そいつは面白いね。要するに、逆転の発想というやつだな。で、君はどう思 
  うの?」
  「それは――」
   続きの言葉は、律子の口からなかなか出てこなかった。
   そして、しばらくしてから、「ダメね、やっぱりわからない。遠い昔のことだものね」 
  と小さく首を横に振って溜め息をついた。
  「貴方はどう思うの?」
  「ン――?」
   私は一度口をつぐみ、少し考えてからまた口を開いた。「やっぱり私もわからないな。 
  うん」
   わからない、と言った私だったが、実のところおおむねの見当がついていた。その時、 
  口に出しはしなかったけれど、おぼろげにはわかっていたのだ。
   恋人としてつき合っていた時分、私は律子のことだけを見つめていた。律子だけを。
   デートなんかをした時に退屈させないよう、律子が好きそうな話題を、いつも頭の中に 
  ストックさせていた。中には、友達から借りた面白い話なんかもあった。
   電話で呼び出されれば、真夜中だって律子のもとに駆けつけるつもりだった。もっとも、
  律子は節度ある子だったから、私を真夜中に呼び出したりはしなかったけれども。
   プレゼントだって、時々は買ってあげた。
   それは、みんな律子の気を惹きたかったからだ。
   たった「さよなら」のひと言で突然他人になってしまえるような、そんな不安定な関係 
  だったからこそ、私は律子の機嫌を損ねないようにといつも気を配っていた。
   そうした積み重ねが、私をあの一日へと繋いだのだ――。
   律子、君を愛した私という男は、君が思っていたよりも、本当は遥かにつまらない男な 
  んだ。多分、君も薄々は感じていたんじゃないか――?
   背伸びをしていた私は、いつまでもそのままの体勢でいられるはずもなく、ついにかか 
  とをついた。
   それが、つまり今なんだよ。
  
  
  「給料三ヶ月分なんだ」
   そう言って、小さなケースを渡す。そのケースにはもちろんダイアモンドのエンゲージ 
  リングが入っているのだけれど、誰が考えたコピーなのか、私の時代には結構流行したプ 
  ロポーズの言葉だった。
   私も例外なくその波にもまれて、ある日、ベージュ色のダッフルコートに突っ込んだ右 
  手を、そこからニュッと抜き出して律子に突きつけた。
  「給料三ヶ月分――」
   私はうつむき加減にそう言った。
   秋の夕暮れの寒さと、いくばくか気恥ずかしいのとで震える手のひらの上には、まばゆ 
  いばかりのダイアモンドの指輪が光っていた。
   実際は、給料の三ヶ月分よりも少し高くついていた。
   私が安月給のしがないサラリーマンだったからに他ならない。
   律子は、それまで橋の欄干にもたれて、西日に紅くキラキラと輝きながら流れる名もな 
  い川をぼんやりと眺めていた。川面に視線を落として、何か物思いにふけっているようだ 
  った。
   ふいに顔の横に突き出されてきた私の手に、律子は「えッ、何――?」と反射的に大き 
  くのけぞった。
   そして、私の手の中にあるそれに気づいた。
   律子は、まじまじと私の顔を見つめた。
   それから、そっと手を伸ばして、私の手の中から指輪をさらっていった。
   しばらく、顔の近くでかざしてから、律子は「嬉しい――」と独り言のようにつぶやい 
  た。そして、「ねぇ、はめてみてもいいかしら?」と私に訊いてきた。
  「もちろん。君のなんだから」と私は答えた。
   律子は、しなやかに伸びた左の薬指に指輪ををはめ込んだ。
   前にサイズはそれとなく聞いていたが、しかしピッタリと合うまで私は少し不安だった。
   指輪は、そこに存在するのが当たり前であるかのように、あまりにも自然に律子の指に 
  収まっていった。
   律子は私に見せびらかそうとでもするかのように、左手を二、三度裏表にひねってみせ 
  た。それから、しばらくの間、律子は、うっとりと光る指輪を見つめていた。
   ふいに風が起こって、向かい合う二人の微妙な距離を吹き抜けていった。軽くウェーブ 
  のかかった律子の黒髪と、ニットのタイトスカートが小さく揺れ動いた。
  「僕は、君を――」
   私は、そう切り出した。うわずりかけた声を抑えるのに、ひどく困った。
  「君を、幸せにしたい。わかっていたと思うけれど、僕はやっぱり君が好きなんだ。愛し 
  ている、と思う。愛なんて形のないものだから、君への愛がどれくらいの大きさなのか、 
  見せてはあげられないけれど――、だから、その指輪を君に贈るんだ」
   前の日に徹夜でつくった原稿の、その一文字一文字を正確に思い出すようにしながら、 
  私は続けた。「君を愛することを、これからの僕の仕事にさせてほしい。もちろん、本業 
  だ。副業で今の仕事も続けるけれど。それは、つまり、要するに――。だから――、僕と、
  けっきょん――」
   肝心なところで、緊張のあまりかんでしまった。
   律子の方も、拍子抜けした感じになっていた。
   私はわざとらしく咳払いをして、ダッフルコートの襟元を緩めるようにしてから、もう 
  一度言い直した。
  「僕と、結婚して下さい」
   今度はちゃんと言えた。
   それまで、うつむいて私の言葉を聞いていた律子は、ゆっくりと視線をあげて、私と目 
  を合わせた。
   そして、何かを言おうとしたのか、少し口を開いた。
   けれど、言葉は続いてこなかった。そして、開きかけた口は再びかたく閉ざされてしま 
  った。
   まるで、この世から音が消えてしまったかのように、辺りは静寂に包まれていた。
   もちろん国道を疾駆する自動車の排気音は、相変わらずひっきりなしに鳴り響いていた 
  のだろうけど、そうしたざわめきは聞こえてこなかった。
   ゴクリと飲み込んだ唾の音が、やけに大きく聞こえた。
   律子は、ようやく口を開いた。唇が少し震えていた。それは、寒さのせいなどでは、き 
  っとなかった。
  「私ね、もう、一人じゃ生きていけないって――、近頃、ずっとそう思っていたのね」
   律子はそう言った。
   伏せた律子の目の縁が、かすかに濡れていた。
  「じゃァ、いいんだね――?」
   私は、念を押すように、ゆっくりと聞いた。
   律子は、小さく、だけど確かにうなずいた。
   私は、無意識のうちに、律子をこの手で抱きしめていた。
   律子が小さく声をあげた。なんて言ったのかは、よく聞こえなかった。
   私の身体に次第に伝わってくる律子の温もりにも、不思議なくらいにリアリティーがな 
  くて、まるで夢でも見ているような感覚だった。
   律子のうなじの向こう側で、私は言った。
  「君を、幸せにするよ」
   私の腕の中で、律子は小さくうなずくようなしぐさを見せた。
  「必ず、君を幸せにするから――」
   私は律子を抱く腕に力を込めた。
   君を、幸せにする。
   まるで、その言葉以外知らないみたいに、私は何度も何度もそう繰り返していた――。 
  
  
   押し入れの前にかがみ込んで、律子は背中を丸めたまま何かを探しているようだった。 
  「どうかしたの?」
   私は訊いた。
   律子は、手を休めることなく、背中越しに返事をした。
  「うん――。貴方、風邪薬知らない? 薬箱の中に見当たらないんだけど――」
  「風邪薬――? どうしたんだい、体調悪いのかい?」
  「ええ、少しね。ちょっと風邪気味なの。いろいろゴタゴタがあって、何だか疲れてしま 
  ったみたいね――」
   私は、少し周りを見回して、小物入れの中に使って置きっぱなしにしてあるのを見つけ 
  た。
  「あったよ」と言って、私はそれを妻に手渡した。
  「もう、使ったらしまってっていつも言ってるじゃない」
   律子は、そうやっていつものように私を非難した。
   私も、いつものように「今度からちゃんとしまうよ――」と言いかけて、やめた。もう、
  今度という日は来ないのだから。
   私は少し仏頂面になって、それでも、「ごめんよ。いつもすまなかった」と謝った。
   律子は、風邪薬のケースから錠剤の入ったガラス瓶を取り出すと、台所の方に行ってし 
  まった。
   コップに水をそそぐ音が聞こえてきた。
   それから、「ねぇ、一回何錠? 2錠でよかったかしら?」という律子の声がした。
   私は、うろ覚えだったが、「大人は3錠だろう。そんなところまでサバ読むなよ」と言 
  ってやった。後の方は小声だったから、多分、聞こえなかったと思うけれど。
   それから、律子が残していった風邪薬のケースを念のために確認した。やっぱり15歳以 
  上は3錠でよかった。
   まァ、しかし今年の秋は冷える。なるほど、律子が風邪を引くのもよくわかる。このま 
  まだと、どんな厳冬になるかわかったもんじゃない。
   これで、まだ11月だもんなァ、と私は思った。
   そうだ、11月なのだ――。
   今日は、確か――、と私は壁に掛かったカレンダーを見た。土曜だから、間違いない、 
  1121日である。
   律子が、台所から戻ってきた。
   私は、つい何となく律子に訊いてみたくなった。
  「律子、明日は何の日だか知っているかい?」
  「えッ、明日――? 今日は何日?」
   律子は、カレンダーに目をやった。
   それから、律子は、「ああ、そうね――」とだけ言った。
   その口調からして、多分、律子は覚えているのだ、と私は思った。
   それから、私は思い立って、広辞苑を引っ張り出してきた。高校の卒業式に、皆勤賞で 
  もらったもので、もう版はだいぶ古くなっているが、大して困らないので、いまでも使っ 
  ている。
   け、け、け――。
   私は、分厚いページを何度も行ったり来たりして、目当ての項目を探していた。
  「何を調べてるの?」
  「いやァ、30年目は何婚式かなァ、とかって思って――」
  「ふぅん、広辞苑にのってるの?」と律子ものぞき込んできた。
  「わからないけど――。あった」
   私は、ページをめくるを手を止めた。
   そこには、表が差し込まれていて、1年目は紙、2年目は綿、3年目は革――、とかっ 
  て書いてあった。
   30年目は、真珠だった。
  「真珠かァ――」
   私は、感慨ありげにつぶやいていた。
  「へぇぇ、真珠」
   律子も感心したように言った。それから、「まさか、何かくれるの?」と言ってきた。 
   私は、「まさか」と笑った。
  「私たちは、もう離婚したじゃないか」
  「そうね――。今日から、また他人に戻ったのよね」
  「うん――」
   私は、うなずいた。
   それから、何も言えなくなった。
   冷蔵庫が低くうなっていた。
   梱包済みの段ボール箱の中で、電池を入れたままの時計がカチコチ鳴っていた。
   二人きりしかいない部屋で、会話もなく二人して黙ってしまうと、まるで世界に私たち 
  二人だけがぽつんと取り残されてしまったような、そんな錯覚に陥りそうになる。
   それでも、今にして思えば、この頃はまだ――。
   まだ、二人もヽヽヽいたのだ。
  「ねえ、貴方」と律子が言った。
  「私が別れたいって言った時、どうして、引き止めてくれなかったの?」
   律子の言葉に、私は耳を疑った。
  「君は――私と別れたかったんだろう?」
  「ええ。もしもね、貴方が捨てないでくれって言ってくれたら、私は――やっぱり別れる 
  つもりだったの」
  「なんだい、それは」
   私は苦笑した。「それじゃァ、どの道、私は捨てられてしまったんじゃないか」
  「そうね。でも、もしも、貴方がそう言ってくれたら、私は自分に自信が持てる気がした 
  の。でも、そうは言ってくれなかった。私、貴方を捨てやった気でいたの。でも、貴方も 
  そうだった。私たち、結局、お互いに捨てられてしまったのね――」
   ふいに、律子の瞳から、しずくがこぼれ落ちた。
   それを押さえようとした律子の中指は、間に合わなかった。
   やがて、とめどなくあふれ出す涙と、それに洗い落とされる化粧を隠すように、両手で 
  顔を覆うと、律子は肩を震わせて泣いた。
   私は、律子の震える肩に自然に手をかけていた。そんな風に律子を気遣う仕草は、まる 
  で、いつかの恋人達みたいだった。
   律子の身体が、少し傾いたような気がした。
   それは気のせいではなくて、律子は次第に私の方へ身体をあずけてきた。
   私は、気づくと律子に口づけていた。
   律子も、拒まなかった。
   はじめて律子と唇を交わした時のことを、私は思い出していた。それを皮切りに、律子 
  がいた風景が次々と脳裏によみがえってきた。
   私は、ようやくその時になって、一人ぼっちになってしまったことを自覚して、急に寂 
  しくなった。
   退屈な二人の生活にまた戻りたいとは思わない。
   でも、せめて今夜だけは、律子という女性の夫でありたいと私は思っていた。
  
                                       終わり