〈一日目〉
  
  
  「はじめに申し上げます。これからご覧に入れますのはマジックやイリュージョンの類い 
  では一切ありませんし、かといって超能力や魔術といったような非科学的事象を扱ったも 
  のでもございません。これは全て科学技術であります。当研究所における脳科学研究、お 
  よび計算機科学研究の成果を応用して開発されたテクノロジです」
   きりやまさとはそう述べた後で、わずかにずれた黒縁の眼鏡のフレームを片手で押し上げた。
   身を包んだ白衣のたもとが、かすかな衣擦れの音を立てた。
   聡美は、それから傍らに控えていた女に合図を送った。
   二十代と見える、長い黒髪の美しい、若い女であった。
   ライトグレーのスーツの襟元から、清潔な白いブラウスを覗かせていた。
   スーツの女は、タイトスカートをほんの少しだけ揺らしながら、ゆっくりとした歩調で 
  聡美の脇に並んだ。
  「改めてご紹介に入れます。広報のいしかわめぐみです」
   聡美の紹介に合わせて、スーツの女――、石川恵は聴衆に向かい深く一礼をした。
   黒く長い髪が、ふわりと揺れた。
   恵が顔をあげるのを待って、聡美は言った。
  「あるいはご覧になったことがおありでしょうか」
   聡美が白衣の胸のポケットから、裏面の青い五枚のカードを取り出した。
   カードを返すと、そこにはそれぞれ、丸、星、波、十字、四角という異なる五種類の図 
  柄が描かれていた。
  「このカードは、一九三〇年頃に米国で開発されたESPカードと呼ばれるものです。も 
  っとも、重ねて申し上げますが、これは超能力のテストではございません」
   聡美は、それから「失礼ですが、大臣」と、聴衆の内、もっとも前に陣取って立ってい 
  た白髪交じりの男に話しかけた。
   大臣、と呼ばれたその男はあし内閣の現役閣僚である、文部科学大臣、渡辺吉兼わたなべよしかねその人 
  であった。
   渡辺は過密なスケジュールの合間を縫って、様々な分野での研究成果の応用が期待され 
  ている、このヒューメネット研究所の行政視察にわざわざ訪れていたのである。
   居合わせる他の面々も、同行の議員や秘書、そして身辺警護の者たちであった。
  「はいはい。なんだね」
   渡辺は気さくに応じた。
  「このカードの内から、ご任意でマークをお選びください。そして、選んだカードを私に 
  悟られないようにして、石川にお伝えください」
   聡美は、五枚のカードを渡辺に手渡した。
   それから、聡美は「失礼にはなりますが、私は後ろを向いております」と背を向けた。 
  「分かった」
   渡辺は、しばしカードをためつすがめつしていたが、やがて「よし」と言って一枚のカ 
  ードを選んだ。
   渡辺が選んだのは、丸であった。
   しかし、渡辺は続けてもう一枚、十字のカードを抜いて、都合、二枚を右手に取った。 
   そして、二枚のカードを手の中で並列させると、茶目っ気を交えた目で恵を見た。
   恵は、渡辺のその行為に何らかの意図を感じながらも、測りかねて瞬いただけだった。 
   そのやりとりは見えていなかったはずの聡美が、大臣の方に向き直りながら言った。
  「丸と十字で、女ですか――?」
  「お、正解だ」と渡辺は笑った。「桐山クンは、一枚だけとは言わなかったからね」
   渡辺は「それに――」と続けた。「このところ、女ではだいぶ苦労しているからなァ」 
   渡辺が頭を搔くと、同行の議員たちから失笑がもれた。
   ちょうど渡辺は愛人問題を週刊誌にすっぱ抜かれて、野党やマスメディア、それに与党 
  内の距離を置く他派閥などから叩かれている、その只中であった。それを自虐的に笑いに 
  してみせたのである。
  「まァ、大臣ったら――」
   聡美は、口元に手を当てて笑った。
  「それにしてもよく分かったね。僕はてっきり、何らかの手段を用いて、この子が桐山ク 
  ンに伝えるのだろうと思っていたのだけれども。この子は分かっていなかったみたいだっ 
  たね」
  「いえ、それではただのマジックになってしまいます。私は今、石川の視覚野にアクセス 
  するという方法で、大臣がマークをお選びになる様子を直接拝見いたしました。今、私と 
  石川はヒューメネット上で繋がっていますから、石川が体験したことを、私はリアルタイ 
  ムに追うことが可能です」
  「ふむ。すごいね、技術の進歩は」と渡辺は言った。「僕が議員になったばかりの頃は、 
  まだインターネットすらなかったな。当時は、専らパソコン通信とか。キャプテンシステ 
  ムなんて、桐山クンの年代だと知らないだろう?」
  「深くは存じません。名前くらいは聞いたことはありますが」
  「議員にも、自分のページをもったりして、IT通のパフォーマンスをしてみせる者も中 
  にはいたんだよ。当時はITなんて言葉も使わなかったけれどもね。ゆくゆくは総理大臣 
  にまでなった人で、もっとも、すぐ退陣させられちゃったけどね。すると、やがてインタ 
  ーネットも退陣じゃァないが、いずれは取って代わられて、そうなると次はヒューメネッ 
  トかな――?」
  「ええ。未だに個人の通信端末としては、パソコンや携帯電話が主流ですが、ヒューメネ 
  ットの実用化に伴い、それらもやがて過去の技術となるでしょう。何の機器も所持、携帯 
  することなく、まるでテレパシように情報通信を行うことができるのですから」
   聡美が「大臣も体験なさってみてください」と言って、恵から受け取ったヘッドセット 
  を渡辺に差し出した。
  「何? 着ければいいの?」
  「お願いします」
  「よし、分かった」
   渡辺は、サイズを若干調節した後で、ヘッドセットを耳に当てた。
  (聞こえますでしょうか?)
   ヘッドセットから流れてきた声に、渡辺は少し目を見開いた。
  「桐山クンなのかい?」
   渡辺は、思わず訊き返していた。
   目の前の聡美は、微笑んだだけで何も言わず、返事はヘッドセットの中から返ってきた。
  (ええ、私が通信を行っております)
  「これは、録音とかじゃないよね?」
  (はい。もちろん違いますよ)
  「ちょっと、試しで。そうだな。今日の僕のネクタイを言ってみて」
  (淡いブルーと白の縞ですね。よくお似合いです)
   確かに、渡辺は背広の内側で、首にその通りのネクタイを結んでいた。
  「おお、正解だ。じゃァ、次ね。今日の桐山クンのパンティの色は――?」
  (大臣――)
  「はは、冗談だよ。しかし、こいつはすごい」
   渡辺は、ひとしきり興奮した後で、しかし、それが、周囲の人間に今一つ伝わっていな 
  いことに気付いた。
   聡美の声はヘッドセットの中だけで聞こえている。
   周りには、渡辺の声しか聞いていない。
   渡辺は、ヘッドセットを外すと、同行の議員に「ちょっと、着けてみて」と譲り渡した。
   同行の議員も、すぐに渡辺と同じような反応を示した。渡辺同様に、二、三の質問を投 
  げる者もいて、しかし、やはり、言い当てられていた。
   渡辺には、そうした会話の詳細までは分からなかったが、その反応に満足して目を細め 
  た。
   やがて、ヘッドセットは渡辺の手に戻り、彼はそれを聡美に返却した。
  「すごいね。びっくりしたよ」
  「ありがとうございます。今のがヒューメネット通話です。通信手続き自体は、無線LA 
  Nのような枯れた技術ですが、私たちは極小の端末を脳に埋め込むことで、機器を携帯し 
  ない形での通話を可能にしています」
   端末を脳に埋め込むと聞いて、渡辺は顔を曇らせた。
  「体内に機械を埋め込むというのは、ちょっと怖い気がするけれども――」
  「そうかもしれませんね。でも、障害者用の補助機器、たとえば視覚障害者のための人工 
  網膜の類いや、心臓の人工弁のような医療機器の分野では、体内に機器を埋め込むという 
  のは、これまでも使い古されたごく一般的な手段でした。健常者には、そうした機器がこ 
  れまで馴染みがなかっただけのことです」
  「たしかに、言われてみればそうだな」
  「医療の話が出たので少し触れさせていただきますが、ヒューメネットは情報通信産業以 
  外に、医療分野への応用も期待されます。最近特に注力しているのが我々が SSHoH 
  ―― Secure SHell over Humenet と仮に呼んでいる人間の遠隔操作の研究ですこれ
  が実現されれば、たとえば優秀な外科医が、遠く離れた病院に入院する重篤な患者の手術 
  を執刀する、というようなことも可能になるでしょう。あるいは、救急車の要請から到着 
  を待つ間、通報者の体を借りることで専門家が応急手当を行うこともできます」
   聡美の説明は続いていた。
  
  
  「副所長」
   凛とした声に遮られて、聡美の眉が跳ねた。
   声の主は、それまでその場にはいなかった、恵とは別の、スーツ姿の女だった。
   年齢も恵とそう変わらない。
   もっとも、服装は同じスーツでも少し違っていて、広報の恵と比べると、この女の装い 
  は幾分と地味な鈍色にびいろのパンツスーツで、あまり表立って姿を出さない裏方の職員のようで 
  ある。
   艶やかな直毛の髪は、長く伸ばせば恵と同じような流れるような黒髪になったかもしれ 
  ないが、短くボブスタイルにカットしている。
   恵よりも視線が低いのは、ロウヒールを履いているせいで、実際の身長はそう変わらな 
  いだろう。
  「ネットワークに障害が出ているようです」
   女は、聡美を真っ直ぐに見つめて、そう言った。
   聡美は、また眼鏡に軽く手を当ててから、不機嫌そうに女を見つめた。
   しばらくの間、聡美は何も言わなかった。
   しかし、聡美はその間、女に対して(あなた、そのふるまいは渡辺大臣がご視察に見え 
  ていると知ってのことなの?)と裏で通話を行っていたのだった。先のヒューメネットで 
  ある。
  (あなたもヒューメネット研究所の一員なら、そういった報告はヒューメネット通話を使 
  って行ったらどうかしら?)
   しかし、それらのパケット情報が全て失われたことを知り、聡美は一層機嫌を損ねた。 
   この女、どういうつもりなの――?
   ヒューメネット通話は、相手側が受信のためのポートを開いていないと情報が伝播され 
  ない。まさに、今、この女――、さい飛鳥あすかはポートを閉じた状態にあるのである。
  「桐山クン、大丈夫なのかね?」
   渡辺が心配そうに声をかけた。
   彼にしてみれば、部下の報告を受けたきり無言のまま聡美の姿は、責任者の態度として 
  は異様に映った。
   聡美は我に返って、笑顔を作った。
  「ご心配をおかけいたしております。状況を確認し、対処して参りたいと存じます。申し 
  訳ありませんが、少し外します。後のご案内は石川がいたします」
  「うん。しっかりやってください」
  「はい。それでは失礼いたします」
   聡美は渡辺に頭を下げると、足早にその場を後にした。
   飛鳥も、それに続いた。
   渡辺たちに声が届かなくなるまで充分に離れてから、聡美は口を開いた。
  「どういうつもりなの、斎木さん。勝手にポートを閉じないように伝えてあったはずよ」 
  松崎まつざき主任の指示です」
  「松崎さんの――?」
   飛鳥が出した名前に、聡美は明らかに詰問の調子を落としていた。
   聡美は少し首を振った後で、飛鳥に「何が起きたの?」と尋ねた。
  「皆目見当が付きません。影響としましては私の班ではなかじまひろしそれから他班の十
  数名が耳鳴りや痙攣等の体調不良を訴えています」
  「その程度なら、すぐにやむでしょう」
  「そうかもしれません。ですが、このところ頻繁に問題が起きすぎています。公に不満を 
  口にする者も少なくありませんひとまず問題の解明に時間を費やした方がよいのでは
  ポートを閉じれば、耳鳴りも痙攣もやみます。ヒューメネットに関わる何かが原因である 
  ことだけははっきりしています」
  「言いたい人には言わせておけばいいわ」
   聡美はそう吐き捨てた後で「もっとも――」と続けた。「面と向かって不平を言ってく 
  るのは、私の知る限りあなたくらいのものじゃないかしら?」
   聡美の皮肉めいた視線に、飛鳥はキュッと口元を結んだ。
   しかし、それから飛鳥はすぐに口を開いた。
  「このまま放置するおつもりですか?」
  「実用化まで、もうあまり時間はかけられないの。既知の不具合としてエスカレーション 
  にあげておきます」
  「延期すべきです」
  「あなたにそれを決める権限はないと思うけれど?」
  「松崎主任もそう言っていますよ」
  「主任、主任って――。いいわ、松崎さんと直接話す。あなたと話しても伝言ゲームにな 
  るだけで無駄みたいだから」
   聡美は聞こえよがしに溜め息をついた。
   飛鳥の鋭い視線を意に介せず、聡美はそれから「彼もポートを閉じてしまっているの?」
  と訊いた。
  「ええ」
  「では、斎木さん。松崎さんに私が部屋で待っていると伝えてくださる?」
  「伝えます」
  「よろしくお願い」
   聡美は、ちょうど降りてきたエレベータに乗り込んで、副所長室がある四階へと昇って 
  いった。
   慇懃に頭を垂れてそれを見送った飛鳥は、ヒールの音を高く鳴らしながら、彼女のオフ 
  ィス、ネットワーク管理室へと戻った。
  
  
  「ご苦労さん」
   聡美への報告から戻ってきた飛鳥にネットワーク管理室の主任松崎しゆういちは労いの
  声をかけた。
   松崎は、くたびれたブラウンのスーツに身を包み、一見したところでは冴えない風体で 
  あるが、縁なしフレームの眼鏡の奥からのぞく瞳は、しかし、いかにも知的に映る。
   苦労人らしく、まだ三十代半ばということだが、無造作にした頭髪にはいくらか白髪も 
  目立っていた。
  「いえ」と飛鳥は首を振った。「それよりも、主任。副所長がお呼びです。お部屋でお待 
  ちになっておられるとのことです」
  「そうか。こっちに来るものだと思っていたけれど」
  「副所長は、主任はともかくとしても、私には居合わせてほしくないんでしょう」
   飛鳥の言葉に、松崎は苦笑した。
  「君たちはよくぶつかるからなァ。優秀な人同士がつぶし合うのはもったいないから、何 
  とか仲良くやってほしいのだけれども」
  「そうは言いましても、主任。副所長はこのままリリースを行うつもりみたいですよ。障 
  害だらけだっていうのに。一体、どういうつもりなんでしょうか」
   松崎は、少しだけ眉をひそめた。
   松崎と聡美は大学の同期で、学部生、大学院を通じて同じ研究室の所属だった。松崎は、
  聡美をよく知っていたから、飛鳥から伝え聞いたその見解は、松崎の知る彼女には到底似 
  つかわしいものではなかった。
   一方で、飛鳥の言葉に懐疑的になれなかったのは、松崎自身、このところの聡美の変化 
  を、薄々感じていたせいである。
   いら立ちを隠さずに、松崎はワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。
   ソファに深くもたれて足を組み、松崎は煙草に火を点けた。
   松崎の指先から白い煙が立ち昇り、天井で静かに回る換気扇に吸い込まれていった。
  「所内は禁煙ですよ」
   飛鳥が言った。
  「一本くらい吸わせろ」
   松崎は、煙を吐きながら、飛鳥を軽く睨んだ。
  「それでは、私も一本だけ」
   飛鳥は、指を立てて、松崎に煙草を要求した。
   松崎は、少し驚いた顔をした。
  「知らなかったな。君も吸うのか?」
  「昔は。最近は、あまり」
   飛鳥は、松崎が差し出した煙草の箱から一本譲り受けると、火を借りて燻らせた。
   一口吸った後で、飛鳥が「同じだ」と呟いた。
  「ん――? 何が同じ?」
  「あ、いや。この銘柄、兄貴が吸っていたのと同じだなァ、と思って」
  「ああ、そう。僕は昔からこれだけれど、最近、また流行り始めたみたいだよ。この職場 
  でも割りと吸っている奴、多いんだよね。少し前にいた部下にも、誰か吸っている奴がい 
  たかな」
   それから、松崎は「今のメンバだと、早坂はやさか君なんかは、キツいの吸っているみたいだけ 
  れどね」と付け足した。
  「禁煙じゃなんですか、ここは」と飛鳥は呆れたように言った。
  「いや、まァ、名目上はね。というか、斎木さんに遠慮してた分もあったんだけれど。で 
  も、どうやら、あまりその必要はなかったみたいだね」
  「そうみたいですね。でも、やっぱり、久しぶりに吸うとクラッとします」
   飛鳥はそう言って笑った。
   ネットワーク管理室は、すっかりメンソールの香りに包まれていた。
   煙草を吸い終えて、幾分落ち着きを取り戻してから、松崎が言った。
  「とにかく、行って会って話をしてくるよ」
  「お願いします」
  「中島君のこと、頼んだよ」
  「彼は?」
   ネットワーク管理室には、松崎と飛鳥の他に誰もいない。
   体長を崩した中島はともかくとして、早坂雄介の姿まで見えないが、彼の場合は、いつ 
  もの通りの重役出勤であろう。
  「仮眠室で休ませている。もうポートは閉じさせたから、じきに治まると思うが」
  「はい」
  「それから、早坂君が来たら、ふざけるなって言っておいてね」
   そう言い残して、松崎はネットワーク管理室を出て行った。
  
  
   副所長室では、聡美がコーヒーを入れながら、松崎を待っていた。
   角のない、丸みを帯びた白いテーブルの上で、サイフォンが小さく音を立てていた。
   聡美が落ちたばかりのコーヒーを、松崎に出した。
   松崎は、カップの取っ手を持ち、熱いコーヒーを一口含んだ。
   コーヒーのコクのある苦味と、豊かな香りが広がった。
  「副所長」
   松崎が話を切り出すと、聡美がそれを制した。
  「苗字で呼んでくださらない? せめて、二人きりの時は、以前のように話しましょう。 
  敬語もやめて」
   コーヒーに軽く口を付けて、聡美は悪戯めいた笑みを見せた。「もっとも、呼び方に関 
  しては、名前の方でも構わないけれどね」
   松崎はわざとらしく咳払いした後で、「桐山さん」と言い直した。「斎木さんから聞い 
  ていると思うが、またヒューメネットに障害が起きている。今週、これで三度目だ。どう 
  にもおかしい。正常ではない。いや、異常と言った方がいいかもしれない」
  「ええ」
  「はじめは外部、あるいは内部からのアタックを疑ったが、ログを追ってもそんな形跡は 
  ない。トラフィックも安定している。体調を崩した全ユーザのイベントログも調べたが、 
  やはり不審な点は見当たらない。一番考えられるのが機器の故障だが、どの職員の機器か 
  らも、異常信号は送られていない。サーバにも赤ランプの点灯しているそれは見当たらな 
  い。念のため、それぞれリブートをかけてみたけれども、効果なしだ」
   どういうわけか、IT関係者というのは、横文字を使いたがる傾向にある。
   それでいて、〝パソコン〟のような誰もが分かる外来語については、逆に〝計算機〟な 
  どと言ってみたりするのだから、余計にたちが悪い。
   ざっと置き換えれば、アタックとは攻撃、ログは履歴、トラフィックとは通信量のこと 
  である。ユーザとは、ユーザーのことで利用者、ここでは職員のことである。
   イベントは置き換えづらいが、機器による一々の作動を指す。
   サーバは、サーバーのことで、これについては置き換える言葉が見当たらない。いわば 
  親玉コンピュータのようなものである。
   ユーザに続いて、ここでも最後の長音を省いた。直前にもコンピュータという言い方を 
  させてもらった。これは業界の慣用である。したがって、今、彼ら飲んでいる黒い液体に 
  ついて、それは何かと試みに尋ねれば、きっとコーヒだと答えてくれるはずである。
   赤ランプについては、まァいいだろう。用語でなく仕組みの解説をしておくと、平素は 
  緑色の光で正常稼動を示しているのだが、サーバ自身が障害を感知すると、それが赤色に 
  変わる。
   それから、最後のリブートというのは、再起動のことである。
   以後もこうした言葉が頻出するとは思うが、分からなければ読み流してもらって一向に 
  問題はない。
   何故なら彼らは、表面的に感じられる難しさほど、難しい内容のことは何一つ話してい 
  ないのである。
  「ソフトウェア側のトラブルじゃないかしら」
  「開発の連中は、一応、調査はしてみると口では言っていたけれども、向こうは内実、ネ 
  ットワークの問題だと思っているだろうからな。どうなることだか。安定稼動していた時 
  期のヴァージョンに一旦ロールバックするよう打診してみたけれど、突っぱねられたよ」 
  「それは、私も賛成しかねるけれど。後戻りの印象が否めないわ」
  「だが、このままでは問題の切り分けさえできない。向こうは最近目立った開発を入れて 
  ないと言っているが、それなら、こちらはもう一年以上、インフラ周りの設定を変更して 
  いないのだからね。まァ、責任をなすり付けあっているだけでは何も始まらないけれど。 
  でも、いずれにしても、とても今はもう安定稼動と呼べる状態ではない。実用化はまだ少 
  し先になるんじゃないだろうか」
   松崎の言葉に、聡美は表情を曇らせた。
  「大臣は実用化の目途をしきりに気にしていたわ」
  「そうか、今日はちょうど視察の日だったのか。ちょっと、というか、だいぶ間が悪かっ 
  たね。もう帰られた?」
  「私は外させていただいて、後は石川さんに案内を任せてあるわ」
  「そう」
  「財政難から研究施設への助成金の額が見直されるそうよ。うちも例外ではないわ」
  「今はどこも厳しいようだ」と松崎は肩をすくめた。
  「コネがある所は強引に予算に捻じ込んでいるみたいだけどね。いっそ、財務大臣に体で 
  も売ってやろうかしら」
  「冗談はよしてくれ。しかし、文科大臣のご意向がどうあれ、やむをえないだろう。君だ 
  ってまさか、本気でこのままリリースしようというつもりではないんだろう?」
   松崎は、訊いた。
   少しだけ言葉に詰まった様子で、聡美は、コーヒーカップに手を伸ばした。
  「一旦、スケジュールを引き直してはどうかな。僕の方でも、もう一度、最初からログを 
  さらってみる。なるべくなら、僕もリスケは避けたい。が、障害の原因を特定できないま 
  まのリリースはなしだ」
   聡美は、溜め息をついた。
  「スケジュール云々に関しては、私の一存では決められないわ。父の承諾を得ないと」
  「一度、教授も交えて、その話をしよう」
  「本気なの?」
  「本気だ」
   松崎の返答に、聡美は目を伏せた。
  「分かったわ。でも、秀一さん。きっと、今度は人事異動だけではすまなくなるわ。それ 
  は、分かっているのよね?」
  「ああ。しかし、僕が言わなければ、誰も言わないだろう」
  「私は、あなたを研究職に戻したいの。あなたにネットワーク管理の仕事なんて、リソー 
  スの無駄遣いもいいところだわ」
  「教授次第だろう」
  「そうね――」
  「しかし、教授は一体、どこで何をどうしているんだ?」
   松崎は不機嫌そうに、テーブルの下で二、三度足を揺らした。「もうここしばらく姿を 
  見ていないんだが」
  「金策だそうよ。議員先生方へのご挨拶に方々を回っているわ」
  「それにしても、研究所に戻りもしないで、すべてを君に任せきりというのは――」
   松崎の言葉に、聡美は、飲みかけのカップをテーブルに置いて、力なく笑った。
   薄化粧の顔からは、落胆の色が容易に見て取れた。
  「やはり、私では、力不足なのかしら」
  「いや、そうじゃない。君はよくやっていると思う」と松崎はすぐに否定した。「ただ、 
  最近、君は少し変わった、というと語弊があるかもしれないが、なんと言うか、僕からは 
  ひどく疲れているように見えるよ」
   聡美は押し黙った。
   それから、「そうかもしれないわね」と細い声で言った。「あなたにだから言うけれど、
  もうここしばらく耳鳴りがやまないのよ」
  「それは――」
   松崎の喉がコクリと動いた。
  「ヒューメネットのせいだと思うわ」
  「すぐに君もポートを閉じたほうがいい」
  「私が――? 冗談。そんなことをしたら、誰も研究に付いてこなくなる」
   聡美は松崎の勧めを鼻で笑った。「それに、一連の障害とポートの開閉状態はおそらく 
  関係ないわ」
  「だが、現にうちのメンバの一人も同じような症状に悩まされているが、ポートを全て閉 
  じればやがて快復している」
  「プラセボってやつね。耳鳴りの原因は別よ」
   プラセボというのは偽薬のことである。
   何の効果を持たない偽者の薬を処方しても、患者が効果があると信じ込むことで実際に 
  一定の治療効果が得られる場合がある。
  「ずいぶん確信をもって言うね。何か情報をもっているのか?」
   松崎は、眼鏡を光らせて、聡美にそう尋ねた。
  「さァ、どうかしらね。何にせよ、ポートは常に開けておいてちょうだい。緊急時の連絡 
  が取れやしないじゃない。その都度、斎木さんをよこされたんじゃァ、こっちはたまった 
  ものじゃないわ」
  「携帯に掛けてくれればいい」
  「そんなの最低だわ。それならヒューメネット研究なんてやめて、携帯でもノートパソコ 
  ンでも好きなだけ使い続ければいいじゃない」
   聡美は、投げやりにそんなことを言った。
  「そんなつもりで言ったのではないよ」と松崎は苦笑した。
  「こっちも冗談よ。とにかく、秀一さんだけでもいいからポートを開けておいてちょうだ 
  い。あなたの部下のことまではとやかく言わないわ」
  「考えておこう。でも、本当に何か摑んだのなら教えてくれよ」
  「ええ。確信が持てたら話すわ」
  「分かった。必ずそうしてくれ」
   松崎は、そう言って頷いた。
   あるいは、問い質しておくべきだったのかもしれない。
   しかし、聡美の疲れ切った表情を前にして、松崎には彼女を更に追い詰めるような言動 
  を取ることがためらわれたのである。
  
  
   松崎がネットワーク管理室に戻ると、早坂雄介ゆうすけの姿があった。
   早坂は、およそ研究所という場所には似つかわしくないカジュアルスタイルで、松崎に 
  はそれが今の流行なのかどうかは分からなかったが、胸ボタンを一つだけ留めて横に流し 
  た裾長で深緑のベストと灰色の長袖シャツ、下は破れかけた紺のデニムを履いていた。
  左腕にはミサンガを三本、頭にはバンダナを鉢巻きにしている。
  おそようヽヽヽヽと松崎は声をかけた。
  「すんません、寝坊です」と早坂は頭を搔いた。
  「遅れた分、ちゃんと仕事していけよ」
  「はい」
  「それと今、ちょうどトラブってるから、とりあえず、ログ追っておいて」
  「斎木さんから聞いてやってます」
  「それから、ポートも不必要に開けておかないように」
  「はい。それも、斎木さんから聞いてます」
  「そうか」
   松崎は頷いた後で、「じゃァ、ふざけんな! ってのも聞いた?」と言った。
  「ああ、聞きました! びっくりしましたよ」と早坂は笑った。「入ってきた瞬間に、斎 
  木さん、怖い顔して、ふざけんな! っスから。一瞬、斎木さんのお気に入りのマグカッ 
  プを割ったのが俺だってバレのかと思いましたよ」
  「マグカップ、やっぱり早坂君が割ったのか」と松崎は苦笑した。「僕からお願いしてお 
  いたんだよ。まァ、なるべく遅れないで来てよ」
  「あい」と、早坂は大して悪びれた様子もなく、返事をした。「でも、本当にうちの管轄 
  なんスかね。吐かれているメッセージは、これでもないかってくらい正常なんスけども」 
  「うん――」
   松崎は顎に手をあてた。
   早坂の背後からモニタを眺めながら、松崎は時折り、思い付いたように、手を伸ばして 
  いくつかコマンドを叩いてみたものの、得られるものはなかった。
  「分からんな」と松崎は首を振った。「そういえば、斎木さんは、今、仮眠室かな?」
  「そうだと思いますよ」
  「そうか。中島君の様子も気にかかるし、ちょっと僕も見てくるよ」
   松崎はネットワーク管理室を出た。
   少し歩いた先の角を曲がると、広報の石川恵が、松崎の方へ向かって歩いてくるところ 
  であった。
   松崎の姿を見つけると、恵は歩みを止めて「松崎さん、お疲れ様です」と挨拶をしてき 
  た。
  「ご苦労様」と松崎も立ち止まった。「今日は渡辺大臣の視察だったそうだね。大丈夫だ 
  った?」
  「ええ、何とか」
   恵は微笑んだが、すぐに心配そうな顔付きになって「それよりも」と言った。「障害が 
  起きているそうですが、その後、どうですか?」
  「早く皆を安心させたいところだけれど、目下、原因不明でね。副所長とも話してはみた 
  んだけど。ポートを全て閉じれば快復するようなんだよね」
   もっとも、聡美はプラセボだと笑っていたが。
   だが、ポートの開閉が関係しているかはともかく、ヒューメネットが関係しているのは 
  間違いないだろう。
  「そうですか――」
  「申し訳ない」と松崎は詫びた。
  「いえ」と恵は首を振った。「さっき、仮眠室をのぞいてみたのですが、本当にもう大勢 
  ――。何だか、以前の時よりも、徐々に不調を訴える方が多くなっている気がします」
  「そのようだ。石川さんは大丈夫なの?」
  「ええ、今のところ私は。松崎さんは、いかがですか?」
  「僕も大丈夫だ。ただ――」
   副所長は――、と言いかけて松崎は思いとどまった。
   聡美は、あなたにだから言うけれど、と前置きをしていたのだ。それは、要するに公言 
  はしないでほしいという意味であろう。
  「ただ?」
  「いや――」
   松崎は言いよどんでから、「うちの班では、中島という奴の体調が思わしくないようで。
  これから、ちょっと行って様子を見てこようかと」とごまかした。
  「あの、細くて背の高い方ですよね。眼鏡の――」
  「ああ、そうそう。知っていたんだ?」
   松崎は少し驚いて、恵を見つめた。
  「ええ。できるだけ職員の方々の顔と名前を一致させられるようにしているんです」
  「それは、素晴らしい心掛けだ」
   松崎は目を細めた。
  「ネットワーク管理班には、他に、斎木さんという女性の方がいらっしゃいますよね」
  「うん」と松崎は頷いた。
  「それに、早坂さん」と恵は得意そうに言った。
  「いたっけ、そんな奴」と松崎はおどけた。
  「いいえ、いますよ」
   恵は少し頬を膨らませた後、「それから――」と続けた。
   しかし、彼女はすぐに首を傾げた。
  「あれ? 出てこなくなっちゃった。ええと、どなたかもう一人、いらっしゃいましたよ 
  ね?」
   恵は、確認するように松崎をちらっと見た。
  「いや。うちは四人だけだよ」と松崎は答えた。「それとも、もしかして、そのもう一人、
  というのは僕のことを言っていたりするの?」
   恵は一瞬きょとんとした後、「いいえ! 違います」と慌てて両手を振った。
   松崎は、その様子に思わず微笑んでいた。
  「あーあ、四人でよかったのかァ。せっかく、いいところを見せようと思ったのに――」 
  と恵は頭を小突く真似をした。
   それから、恵は松崎に「あ、仮眠室にお見えになる途中でしたよね」と訊いてきた。
  「そのつもりだよ」
  「お引止めしてしまって、申し訳ありませんでした」
   恵は頭を下げた。
  「いえいえ。広報のお仕事がんばってね」
  「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
   恵はもう一度お辞儀をしてから、すれ違っていった。
   その後姿を、何とはなく見送っていた松崎だったが――。
   ふいに、脳裏に一人の男の姿が、ひどく鮮明に像を結んだ。
   季節外れの冬服に身を包んだ小太りのその男は、異様に虚ろな目で松崎を見つめていた。
   見覚えのある顔立ちで、しかし、松崎がそれを思い出す前に、像はあっさりとかき消え 
  てしまった。
   言い知れぬ不安が、胸の奥底から頬へと這い上がってくるような感覚に松崎は捉われて 
  いた。
   振り払うように、松崎は慌てて首を二、三度強く揺すった。
   何だ、今のは――?
   幻視。
   まさか、自分も体調に異常が現れはじめたのだろうか?
   耳鳴り、中には幻聴に悩むものがいるくらいである。幻視にさいなまれても一向に不思 
  議ではない。
   少し休んだほうがいいかもしれない。
   松崎は、心なしか仮眠室へと向かう足取りを速めていた。
   仮眠室には、恵の言葉通りに人の姿が多くあった。
   通りがけに、その内の何室かの様子をドア越しにうかがったが、それぞれの個室に設置 
  されたスプリングベッドには、大抵、すでに誰かしらが横たわっていた。
   中島は、奥から二番目の部屋のベッドに、やや青白い顔で半身を起こして座っていた。 
  「中島君、大丈夫かい?」
   松崎は室内に入り、中島に声を掛けたが、彼は呆けているのか、返事が返るまで少し間 
  があった。
  「ああ、主任でしたか――」
   枕元に外していた眼鏡をかけ直しながら、中島は「何とか生きていますよ」と答えた。 
  「斎木さんは来ていないのか?」
  「ああ、さっきまでいましたよ」
  「どこへ行ったのだろう? 管理室にはいなかったようだが」
  「少し外すと言っていましたから、じきに戻ってくると思いますよ」
  「ふむ」
   松崎は腕を組んだ。
  「それにしても、原因は一体何なのでしょうか。今週、これで三度目です」
  「分からない」
  「うちの班では、僕だけです」
  「うん――」
  「それに、さすがに気付きましたが、毎回、不調になるのは同じ面子です」と中島は言っ 
  た。
  「もちろん、その都度、新しい顔も増えているんですが、前回に不調になった人間は必ず、
  次もやられてる気がします。体質でしょうか」
  「どうだろう」と松崎は首をひねった。
   中島は「僕――」と声の調子を落として続けた。
  「この研究所を去ろうと思っているんです」
  松崎は、ややあってから「そうか」と重く頷いた。
  「主任には申し訳ありませんけど」
  「いや。私が君の立場なら、やはりそうするかもしれない」
  「すみません」
  「君ならば――」と松崎は言った。「もしも他の職場に移ったとしても、やっていけるだ 
  ろう。もっとも、早坂君のようなタイプは、どこでもというわけにはいかないかもしれん 
  がね」
   松崎はそう言って和ませた。
  「あいつはァ、そうですね」と中島も、はじめて笑顔になった。
  「もっとも、僕としては、仕事さえちゃんとしてくれればどんな格好をしてても、まァ、 
  構わないと思ってはいるんだけれどね。遅れてきたとしても、その分は、残ってやってい 
  ってもらえば」
  「でも、あいつ、言うほど仕事できませんよ?」
   中島が真顔で言うので、松崎は思わずふき出していた。
  「楽しそうですね」
   背後で声がした。
   飛鳥だった。
  「ああ、斎木さん。どこか行っていたの?」
  「聞きますか? それを――」
  「え――?」
  「少々、御手洗いに――」
  「ああ、そうなの」
   松崎は少しばつの悪い返事になった。
  「そうだ。御手洗いで副所長に会いましたよ」と飛鳥が言った。
  「ふぅん。そうか」
  「泣いていらしたみたいですけど。何かありました?」
  「え――?」と松崎は聞き返していた。「そう。いや、僕がいた時は、そんな様子はなか 
  ったけれども。でも、多少強く言いすぎたのかもしれない」
  「そういうタイプの人だとは思わなかったので、少しびっくりしました。色々な意味で、 
  もっと強い人かと思っていましたが」
  「今、所長が留守にしているだろう。彼女も、ああして気を張ってはいるが、まァいろい 
  ろ大変なんだろう」
  「そうですね」
   飛鳥は、無感動に相槌を打った。「でも、だからといって、副所長個人の感情のために、
  障害を抱えた状態で、果たしてこのまま実用化に向けて進んでよいものでしょうか?」
   松崎は「手厳しいな」と苦笑した。「もっとも、僕もそれが正しいとは思わない。リス 
  ケになると思うよ。いや、させる。所長が戻り次第、副所長も交えて話をする。今日、そ 
  の話をしてきたから。彼女も了承した」
  「ありがとうございます」
   飛鳥は目礼をして答えた。
  「さて、そろそろ仕事に戻ろうか。中島君は、まだ休んでいた方がよさそうだけれどね」 
   松崎が気遣うと、中島は「すみません」と答えた。
  「でも、もう少ししたら僕も戻りますよ。休んでばかりいても退屈ですから」
  「大丈夫なの?」
   飛鳥が訊いた。
  「うん、大丈夫」と中島は返事をした。
  「そうか。まァ、無理はしないでくれよ」
  「はい」
   中島は、まだあまり良いとはいえない顔色ではにかんでみせた。
  
  
   早坂の姿が、また見えなくなっていた。
   松崎は、「どこにいったんだ? あいつは」と首を傾げた。
  「広報の石川さんと一緒じゃないですか?」
   飛鳥の思わぬ言葉に、松崎は「何で?」と訊いていた。
  「いえ、さっき石川さんがこの部屋方面に向かっているみたいだったから、そうかなと」 
  「僕もすれ違ったけど。でも、それが何で?」
  「あれ、ご存知ありませんでした?」と飛鳥は瞬いた。「あの二人、付き合ってるみたい 
  ですよ」
   飛鳥のその発言は、松崎には少し意外に感じられた。
  「へえ、そうなんだ? だいぶ、タイプが違うけれど」
  「そんなものですよ」
  「そうかもしれないけれどね。まァ、別にそれはかまわないんだけれども。でも、とはい 
  え業務中はいかんね。早坂君はともかく、石川さんはそういうところは割りとしっかりし 
  ていると思っていたけれど。そうでもないのかな」
  「多分、お昼休みじゃないですか。時間的に」
  「え? そうか。もうそんな時間か」
   松崎は、左腕を軽く揺すって、腕時計に視線をやった。
   もっとも、時計などわざわざ携帯しなくとも、時間を知ろうと思えば、体内の通信端末 
  に内蔵しているそれや、あるいは目の前の業務用パソコンでもそれを可能にしていたが、 
  松崎はアクセサリとしてそれを愛用していた。
   時刻は、ちょうど正午を回ったところで、黒光りするコンピュータ彫りの文字盤上で、 
  二つの針はローマ数字で刻まれたを差して重なっていた。
  「というか、早坂君はさっき来たばかりじゃないか」
   肝心なことに気付いて、松崎は、さすがに渋い表情になった。
  「そうでしたね。呼び戻しますか?」
   本気か稚気か、飛鳥が受話器に手をかけたので、松崎は「いや、そこまでしなくてもい 
  いけど」と笑った。
  「斎木さんも、お昼行ってきていいよ」
  「主任は、まだ行かれないんですか?」
  「斎木さんが行ってきた後にするよ。ここを留守にするわけにはいかないからね」
  「分かりました。でも、まだ若干早いですし、もう少し経ったら行こうと思います」
  「うん。そうしてくれ」
   松崎は、休止モードに入っていたパソコンを再び立ち上げながら「ああ。そういえば、 
  中島君のことなんだけど」と切り出した。
  「もう、中島君から聞いている?」
  「それは、どの件でしょうか?」
   飛鳥はそう答えたが、少し声の調子を落としたその口ぶりは、おそらく知っているのだ 
  ろうと松崎には思われた。
  「中島君の、この後についてとかさ」
  「ああ。それでしたら、聞いております。主任が仮眠室にいらっしゃる前に」
  「そうか。まァ、僕個人としては中島君の意思を尊重したいと思うんだけれど。うちの班 
  としては痛いよな。また、人を入れないといけない」
  「結構、入れ替わり多いんですか?」
  「そうだな。中島君は割りと古株だけど、それでも三、四年かな。早坂君は昨年入れたば 
  かりだし。まァ、言われてみれば多いね。業務内容に待遇が追い付いていないから、離職 
  率が結構高い。加えて、中島君は結構できる方だからな。すぐに代わりが見つかるといい 
  んだけど」
   松崎はそう言った後で、「斎木さん、お兄さんがいるっていったっけ?」と飛鳥に尋ね 
  た。
  「ええ、おりますけど」
  「誘えない? この業界の人だよね?」
  「いや、それはさすがに無理ですよ」と飛鳥は笑って手を振った。
  「そうか。残念」と松崎も笑った。「斎木さんクラスの人なら、こっちとしては大歓迎な 
  んだけど。もっとも、去年くらいまでなら、うちにもかなりできる人がいたんだけど、そ 
  の人も結局辞めちゃったからね。後任で早坂君を入れたんだけど、でも、ちょっと足りな 
  くて。斎木さんに入ってもらえてだいぶ助かっているよ」
  「そう言っていただけると。ありがとうございます」
  「何ていうヤツだったかな。あいつは」
  「そのできたっていう人ですか?」
  「うん。ちょっとど忘れしちゃって、名前が出てこないんだけど」
   松崎はそう言って頭の後ろを搔く、その右手をふと止めた。
   そう。
   その男こそが、先ほど幻視に見た人物であることを、ようやくのように思い出したため 
  だった。
   なぜ、あの時、すぐに気付かなかったのだろう?
   かつて職場を共にし、そして、その能力を買ってもいた部下のことを、たった一年の間 
  に忘れ去ってしまっている自分自身に対して、松崎は戦慄していた。
   それが、人の名前が出てこないという程度のことであれば驚くことはない。
   そうではない。
   松崎の記憶からは、その男が存在したという事実そのものが、その時まで、ごっそりと 
  抜け落ちたように消えてしまっていたのである。
   先ほど石川恵が言っていた、ネットワーク管理班のもう一人とは、おそらく、彼のこと 
  だったのではなかろうか。
  「どうかなさいましたか?」
   飛鳥の声に、松崎は我に返った。
  「いや。何でもない」と松崎は首を振った。
   不自然に途切れたままになった会話を、しかし、松崎はそれから続けようとはせず、立 
  ち上がったばかりのパソコンから、共有サーバへの接続を試みていた。
   職員名簿を、松崎は探していた。
   全職員への公開フォルダに職員名簿は置かれており、松崎はおもむろにそれを開いた。 
   職員名簿は、それ自体がシステム開発班が組んだ単純なGUIアプリケーションで、各 
  職員の詳細情報への導線としてリストと検索フォームを備えている。
   松崎は、班名で絞り込んで検索をかけた。
   一瞬の処理時間。
   返された行は、四行。
   現在のネットワーク管理班のメンバが名を連ねるだけである。
   大方、退職した職員の情報は、個人情報保護の関連で削除しているのだろう。
   松崎は、小さく舌を打った。
   諦めて名簿を閉じかけて、ふとリストの内容に違和感を覚え、松崎はそれを思いとどま 
  った。
   松崎が目を留めたのは、リストの最左列。
   社員番号である。
   松崎の番号は3、中島は42、早坂は307、そして、飛鳥は310である。
   要するに、これが単純な連番だとすれば、中島と早坂の番号が、あまりに飛びすぎてい 
  るのである。そして、百人足らずの研究所の職員数に照らして、番号も大きくなりすぎて 
  はいないか。
   しかし、連番でないのならば、それにしては綺麗に並びすぎている。
   一体、何人の職員が入り、そして辞めていったというのだろう。
   松崎の印象では、確かに離職率は高い気はしていたが、それほど歴史の深くない研究所 
  で、すでに二百人以上もの人間が離れているというのは、どうにも普通ではない。
   不安が、また甦ってくるのを、松崎は感じていた。
   それは、今、身を寄せているこの研究所への不安でもあったし、自分自身の曖昧な記憶 
  への不安でもあった。
   モニタを眺めたまま、松崎は少しの間呆然とし、飛鳥が昼食に出かけたことに気付いた 
  のは、それから、だいぶ経ってからのことであった。
  
  
   結局、その日、障害の原因を特定することはできなかった。
   松崎は、深夜二時を回ったところで調査を諦め、帰路に就くことにした。
   ネットワーク管理室には、松崎の他、誰もいない。皆、すでに帰した後であった。
   松崎はパソコンを落とした後、隣接するサーバルームに向かった。
   サーバの状態を確認してから帰るのが、松崎の日課であった。
   暗闇の中で、平常運転を告げる緑ランプが煌々としていた。
   終日の調査結果に照らして、やはり、インフラの問題であるとは考えにくかった。
   しかし、システム開発班の方でも、早々にソフトウェアに不具合は見つからないと結論 
  付けてしまっている。
   あとは、医療研究班の診断を待つのみだが、これには結果が出るまで数日を要する。
   もっとも、仮に問題が発覚したところで、聡美の息のかかった医療研究班が、リリース 
  の迫ったこの時期に、はたして正しい診断結果を公表するかは不明である。
   一層のこと、松崎としてはインフラの問題であってほしいとさえ願っていた。
   それならば、叱責は受けるにせよ、自分たちで解決を図ることはできる。
   だが、そうではなさそうなのである。
   松崎は、溜め息を一つついた後、サーバルームの分厚い鉄の扉を閉ざした。
   けたたましく鳴っていた冷却ファンの音が、それで一切聞こえなくなった。
   松崎が自宅アパートに着いたのは、研究所から車を飛ばして、三十分ほど経った後であ 
  る。
   生活感のない無機質のインテリアに迎えられた松崎は、まずパソコンの電源を入れてか 
  ら、ネクタイを解き、背広を着替えた。
   メールボックスに、新着がいくつか届いていた。
   その中に、送信者が聡美のものを見つけ、松崎はそれをはじめに開いた。
   件名はなく、本文は一行。
   〝読んだら連絡して〟とだけあった。
   松崎は聡美のメールを閉じ、他のメールにざっと目を通してしまった。
   それから、松崎は黒いソファに深く沈んで、煙草に火を点けた。
   とりあえず一服した後で、松崎はポートを開いた。
   ちなみに、ポートの開閉に特別な作業や機器は必要ない。
   脳に埋め込まれた通信端末は、意識のみで操ることができる。
   今、松崎の網膜には、物理的に目の前にディスプレイを置いたのと、同じような映像が 
  投射されている。
   視神経が得た情報を、通信端末がフックして上書きしているのである。
   仮想モニタには、次のような情報が映し出されている。
   
   Chain INPUT (policy DROP)
   target   port  opt  source      destination
   ACCEPT   udp   --   172.17.1.3  anywhere     udp dpt:80
   DROP     udp   --   anywhere    anywhere     udp dpt:80
   ...
   
   source の 172.17.1.3 というIPアドレスは、副所長のそれである。
   時代は IPv6 に移行しつつあるが、社内LANのような小規模ネットワーク上において 
  は無駄に煩雑であり、依然 IPv4 は利用され続けている。
   udp とは User Datagram Protocol の略で、ネットワーク上でのデータ転送手続きの一 
  つであるhttp で使われるような tcp ―― Transmission Control Protocol に比べ
  データ転送効率は高い反面、精度は低く、情報が抜け落ちることがある。音声通話のよう 
  な、情報が一部途切れても差し支えないようなケースでは、もっぱら udp が選択される。
   dpt とは Destination Ports の略で、宛先ポートの意味である。ポート80番は、音声 
  通話に利用しているポートである。
   ACCEPT とは日本語で言えば受信であり、すなわち松崎は今副所長からの音声通話
  パケットを受信できるようにしたのである。
  (松崎です。戻りました)
   松崎が呼びかけると、すぐに聡美から返事が返ってきた。
  (ああ、秀一さん。お疲れさま)
   聡美の声は、ひどく落ち着いていて、昼間の張り詰めた様子はなかった。
   それから、聡美は(敬語はやめてよね。誰も聞いてはいないんだから)と言った。
  (会話はログに全部残りますよ)
  (別に構わないでしょう。通話履歴はあなたぐらいしか見ることができないのだし)
  (まァ、そうだけど)
  (それで、どうなの? 何か分かった?)
  (残念ながら、徒労に終わったよ)
  (そう)
  (リリースは――)
  (うん、分かってる。父に連絡を取ったわ。近く戻るそうよ)
  (そうか。それならいいんだ)
   しばらく、沈黙が訪れた。
   先に口を開いたのは、聡美の方だった。
  (ねえ。斎木さんのことなんだけど)
  (ん?)
  (私のこと、何か言ってた?)
  (何かって――?)
  (泣いているところを見られちゃった)
  (ああ。そのことね。うん)
  (よりによって、一番見られたくない人にね)
   松崎は、少し笑った。
  (あまり、無理をするなよ)
  (ええ。ごめんなさいね。帰ってきて、疲れているところを。ゆっくり休んで)
  (ああ、そうするよ)
  (明日は時間をずらして出勤したら?)
  (いや、いつも通り出るよ)
  (そう。あなたも無理はしないでね)
  (分かっている)
  (うん。じゃあ、切るわね。お休みなさい)
  (お休み)
   通話は途絶えた。
   松崎は、二本目の煙草をくわえた。
   それが残っていた最後の一本で、松崎は用済みになった空箱を片手で潰し、部屋の隅の 
  ダストボックスに投げ入れた。
   箱は、ダストボックスの縁に一度当たって小さな音を立てた後、中に消えた。
   通話を終えて、松崎は少しだけ穏やかな気持ちになっていた。
   それは、所長の留守中の激務に追われて失っていた何かを、聡美が取り戻しはじめてい 
  るように感じられたためであった。あるいは、所長に現状を報告したことで、いくらか胸 
  のつかえが下りたのかもしれない。
   煙草の煙が作る輪の中に、松崎はぼんやりとかつての聡美の姿を見ていた。
  
  
    〈二日目〉
  
  
   翌朝、残業の疲れにも関わらず、松崎は平素よりも早く目覚めた。
   寝直すほどの時間はなく、松崎はそのまま起きてしまうことにした。
   熱いシャワーを浴びて眠気を覚ました後、松崎はバスローブ姿のまま、松崎はネットワ 
  ークデスクにかけ、パソコンを起動した。
   ポータルサイトのニュースでは、渡辺文科相の一連のスキャンダルが相変わらず賑わせ 
  ていた。
   昨日の視察に絡めてか、関連記事として、ヒューメネットについて書かれた技術系の記 
  事があがっていて、松崎はそれを開いた。
   既存の各種ネットワークと比較した解説と図、そして、将来の展望が、そこには述べら 
  れていた。
   いつか取材を受けた際の桐山教授の言葉が、文字として起こされたものである。
   教授の写真が、記事の最後に付されていた。
   写真の中の教授は、煙草のヤニで黄ばんだ歯をニカッと見せながら、額と目元に深い皺 
  を寄せていた。
   近頃、見ることの少なくなった、いい笑顔だった。
   教授は、松崎の憧れであった。
   煙草の銘柄にしてもそうだ。学生時代、教授に勧められた一本、その銘柄を今でも吸い 
  続けている。
   性急な実用化を推し進める教授に意見したことで研究職を追われ、今のネットワーク管 
  理職を宛がわれた時も、松崎はそれに従った。
   松崎のしたい研究は、教授の元にしかなかった。
   いつ研究職に再び呼び戻されてもいいように、教授の論文、および関連するそれらには 
  全て目を通し、自分なりの考察を持ってもいた。
   その忠誠心が、今、ゆらぎ始めていた。
   近く、もう一度、教授に意見しなければならない。
   次は、研究所を追われるかもしれない。
   それでも言わなければならない、と松崎は思った。
   研究所の人間で、教授に意見することのできる者は自分を置いて他にいないだろう。そ 
  して、それを期待されてもいる。斎木飛鳥のように、今のやり方を快く思わないものも少 
  なからずいるのだ。
   松崎は煙草を吸おうと席を立ち、洋箪笥に掛けた背広のポケットを探って、それを昨日 
  に切らしていることを思い出した。
   買い置きのカートンもない。
   行きがけに買おう。
   研究所近くに、一軒だけコンビニがあり、日頃、松崎はそこで買い求めていた。
   少し早めに出たほうがいいかもしれない。
   松崎はパソコンの電源を落とすと、背広に着替え、アパートを後にした。
   コンビニに車を付け、店内に入ったところで、松崎は雑誌コーナーに思わぬ人物を見か 
  けた。
   奇抜な服装で、男性ファッション誌を立ち読んでいるのは、紛れもない、部下の早坂雄 
  介である。
   松崎が驚いたのは、偶然、早坂に出会ったことよりも、むしろ、彼がこの朝早い時間帯 
  に出歩いていることに対してであった。
   松崎が立ち尽くしている内に、早坂の方も気付いて「あ、主任。どうも」と雑誌を閉じ、
  棚に戻した。
  「やあ。今日はずいぶん早いじゃないか」
  「ええ、まァ」
   早坂は鼻の上をかきながら「実は調べたいことがあったんスよ」と言った。
  「何だ? 昨日の件、何か思い当たることでもあるのか?」
  「いや、全然違くて。関係ないことなんスけど」
  「なんだよ」
   松崎は苦笑した。「歩きか? なら、乗せてくぞ」
  「ありがとうございます」
  「ちょっと待ってろ。煙草を買う」
   松崎は自分の分と、それから、早坂が普段吸っている別の銘柄をそれぞれ1カートンず 
  つ買った。
  「ほらよ。おごり」と松崎はそれを早坂に渡した。
  「あ、どうもです」
   早坂はペコリと頭を下げた。
   助手席に早坂を乗せて、松崎は車を出しながら「調べたいって、それなら、何なんだ?」
  と訊いた。
  「ああ、いや。大したことじゃないんスけど――」
   早坂は、そう前置きした後で「広報の、石川恵って子、知ってますか?」と言った。
   松崎は、飛鳥から聞いた話を思い出したものの、プライベートには触れず「そりゃ、知 
  ってるけど」とだけ答えた。
   しかし、早坂の方から勝手にしゃべり出していた。
  「いや、実は俺ら付き合っているんスよ」
  「ああ、らしいね」
  「あ、知ってたんスか?」と早坂は意外そうに訊いた。
  「噂に聞いた程度だけど。それで?」
   松崎は、話の続きを促した。
  「昨日の帰り、二人で研究所の中を歩いてたんスけど。突然、彼女が叫んで。で、見たっ 
  て言うんスよ」
  「見た?」
  「ええ」
  「見たって、何を?」
  「だから、幽霊ですよ」
  「幽霊だァ?」
   松崎は、何をこの時代に、と呆れて顔をしかめた。
  「俺は、何かの見間違いだろうって言ったんスけど、恵は聞かなくて。だから調査をして 
  やろうと。昨日は、もう夜で暗かったし、何より恵が帰りたがって」
  「暇だな」
  「なもんで、ちょっと今日遅れていいスか?」
  「いい訳あるか。それに、今日も、だろう?」
   松崎の車は、研究所の敷地内に入った。
   ロータリーを回り、松崎は駐車場に車を停めた。
   北館の裏から、一度、建物に入り、本館へと繋がる渡り廊下に差しかかった辺りで、早 
  坂が「あ、この辺なんスよ」と言った。
  「幽霊の話か?」
   松崎は、立ち止まって周囲を見渡した。
   北館と本館が、渡り廊下を見下ろしている。
   二館の間は舗道が隔て、針葉樹の植え込みがそこに沿って並んでいる。
   西館と、東には職員寮が見える。
   ふと、松崎はある一点に目を留めた。
   もちろん、何もない。
  「どうかしました?」
   松崎の視線を追って、早坂が訊いた。
  「いや、別に」と松崎は答えた。
   松崎は、本館の五階、所長室の窓をただ見ていたのである。
  「何もないスよね――」
   早坂は肩をすくめた。
  
  
   ネットワーク管理室には、すでに斎木飛鳥の姿があった。
   飛鳥は、一旦席を立ち、松崎たちを迎えた。
  「主任、おはようございます。早坂さんも」
   挨拶を交わした後で、飛鳥は「ご一緒でらしたんですか?」と訊いた。
  「途中、拾ってきた」
   松崎は答えた。
   隣の席に着いた早坂に、飛鳥は「今日は早いんですね」と言った。
  「まァ、たまには早く来ることもあるんスよ」
  「幽霊の調査がしたかったんだと」
  「幽霊?」と飛鳥は首をかしげた。
  「そうなんスよ」
   早坂が昨夜の幽霊騒動を飛鳥に聞かせた。
  「ああ、聞いたことありますよ」
   飛鳥はそう言った。
  「まじスか?」
  「ええ。噂話を耳にした程度ですけど。夜、渡り廊下に、人の影みたいなのができること 
  があるって」
  「多分、恵が見たのはそれだ」
  「何かあるんだろうか?」
  「さァ、詳しくは分かりませんけど。大方、どこかの部屋の明かりでも漏れているんじゃ 
  ないでしょうか?」
   現実的な見解を飛鳥は述べた。
   その朝は、どうしたことか、中島が始業時刻になっても揃わなかった。
  「珍しいな」
   松崎は、時計の文字盤に視線を落とした。
  「俺が早く来ちゃったからスかね?」
   おどける早坂を無視して、飛鳥が「心配ですね」と言った。
  「昨日のこともあるしな」と松崎は応じた。
  「ちょっと呼んでみるよ」
  (中島君、聞こえるか――?)
   しかし、セッションは作られなかった。
  「駄目だ。ポートを閉じている」
  「昨日、ずっと体調悪そうでしたから。電話を入れてみますね」
   飛鳥は受話器を取った。
   しばらく待って、飛鳥は受話器を耳から外し、置いた。
  「出ませんね」
   飛鳥は首を振った。
  「ちょっと、見てきましょうか」と早坂が言った。
  「ああ、中島君は寮か。頼む」
  「あい。ひとっ走り行ってきます」
   早坂がネットワーク管理室を出て行った。
  「心配ですね」
   もう一度、飛鳥がそう言った。
   やがて、早坂から二人に通話が入った。
  (あの、中島さん、部屋にいないみたいなんスけど。そっちに行ってます?)
  (いや、来ていないけれど)
  (寮長さんに鍵を借りてみてはどうでしょうか?)
   飛鳥が提案した。
  (あ、いや。違くて)と早坂が言った。
  (部屋、空いているんスよ。もぬけの殻ってやつで)
   松崎と飛鳥は一度、顔を見合わせた。
  (分かった。とりあえず、戻ってくれ)
  (あい)
  「どこに行かれたんでしょうか?」
  「分からん」
   松崎はパソコンに向かい、モニタにネットワークカメラの映像を映した。
   研究所内には、何台ものネットワークカメラが設置してある。
   その映像に中島の姿があるかもしれない、と松崎は考えたのである。
   ネットワークカメラを次々に切り替え、松崎はその映像に目を通していく。
   中島の姿は、見当たらない。
  「とりあえず、人事に連絡だけ入れる」
   松崎は、人事班に事態を報告した。
  「人事は何て?」
   飛鳥が訊いた。
  「副所長と相談して対応を決めるそうだ。その間に、もし中島君が来たら知らせてほしい 
  とさ」
  「そうですか」
   突然、ネットワーク管理室のドアが、勢いよく開いた。
   入ってきたのは、早坂でも、そして、中島でもない。石川恵だった。
   恵は、慌しくドアに鍵をかけて、そこに背をもたれて座り込んだ。
  「どうしたの――?」
   松崎は、思わぬ訪問者に戸惑った。
   恵は息を切らしながら、紅潮と蒼白の入り混じった顔を向けた。
  「に、逃げてきたんです――!」
   恵の瞳は、恐怖に慄いていた。
  「逃げる?」
   松崎は訊き返した。「逃げるって、誰から?」
  
  
   職員寮から戻る途中、早坂は例の渡り廊下に差しかかった。
   夜に時折りできるという影。
   どこかの部屋の明かりが漏れているのではないか。飛鳥はそう言っていた。
   どの部屋だろう?
   早坂は、今朝方そうしたように、またひと通り辺りを見回した。
   しかし、日差しのあるこの時間帯に、それを特定することは困難を極めた。
   夜、早めに仕事を切り上げて、もう一度来てみよう。
   早坂は思い直して、視線を戻した。
   その時、植え込みの陰から、ひょっこりと一人の男が姿を見せた。
   男は背を向けており、西館の方へと向かっているらしく、早坂には気付いていない様子 
  だったが、そのひょろりと伸びた後姿は班員の中島博に相違なかった。
  「中島さん、探しましたよ」
   早坂は、中島に声をかけた。
   中島は後姿のまま、ぴたりと立ち止まった。
   早坂は、松崎に通話を入れた。
  (松崎さん。中島さん、見つけましたよ)
   すぐに松崎から応答があった。
   それは、早坂が到底予期しないそれであった。
  (中島君に近寄るな!)
  (え――?)
   中島が、振り向いた。
   ニヤけた笑いを浮かべ歪んだ口元。
   ずり落ちた眼鏡からのぞく血走った瞳は、どこか焦点が定まらず、しかし、確かに早坂 
  を射抜いていた。
   くっちゃくっちゃ、と音を立てて何かの肉を食んでいて、時折り唾液が口から滴り落ち 
  ていた。
  (逃げろ!)
   松崎の声が耳に響いた。
   だが、飛びかかる中島の方が速かった。
   揉み合いの中、中島が伸ばした膝が早坂の腹を蹴り抜いた。
   早坂はもんどり打って転がり、背と頭を地面に強く打ち付けた。
   一瞬、視界が白くなった。
   中島は、路傍の置石を持ち上げ、今にも自分に向けて振り下ろそうとしている。
   薄れかけた意識の中で、しかし、早坂はそれに気付いた。
   すぐさま跳ね起きると、早坂は無我夢中で中島の足元をもろ手で刈った。
   中島の長身が重心を失い、大きく後ろに倒れる。
   渡り廊下の柱に後頭部を打ち付けて、中島は沈んだ。その拍子に手から離れた置石が、 
  倒れた中島の上に落ちた。
   中島は、動かなくなった。
   早坂は、肩で息をしながら、口元をぬぐった。
   服の袖が、切れた唇からにじんだ血で赤く染まった。
   息が整うのを待ってから、早坂は松崎に呼びかけた。
  (ちょっと、来てもらえますか。渡り廊下のところです)
  (無事か?)
  (何とか)
  (中島君は?)
  (目の前で、伸びてます)
  (そうか。ともかくすぐ行く)
   数分の内に、松崎と飛鳥、そして恵が早坂の元に駆け付けた。
   早坂が、顎をしゃくって、中島を示した。
  「これ、どういうことスか?」と早坂が訊いた。
  「分からん」と松崎は首を振った。
  「ちょっと副所長と連絡を取る」
   松崎は、輪から少しだけ離れた。
  「今朝、寮でね、中島さんに会ったんです」と恵がしゃくり上げながら言った。「声をか 
  けたんです。でも、いつもだったら振り向いてくれるのに、今朝は――。それで、何をし 
  ているのかなって、思って、覗き込んだら、腕の中に――、システムの、宮本みやもとさんの――、
  宮本さんの、く、く、く――」
   恵は、そこまで言うと、手で顔を覆った。
   早坂が、恵を抱き寄せた。
   松崎が副所長に連絡を取り終えて、戻ってきた。
  「医療研究の奴らをよこすらしい」
  「警察へは?」と飛鳥が訊いた。
  「副所長から連絡するそうだ。事情を聴かれるかもしれないから、早坂君は管理室で待機 
  していてほしいと。石川さんも、一緒にいるといい」
   早坂に支えられながら、恵はこっくりと頷いた。
   やがて、医療研究班の数名が到着した。
   彼らは、松崎と二言、三言交わした後、中島を担架に縛り付けて、どこかへ連れて行っ 
  た。
   渡り廊下には、生々しい赤い血の跡だけが残った。
  
  
   何の連絡もないまま、時間ばかりが過ぎて、正午になっていた。
   中島の座席が不自然に空いたネットワーク管理室。
   早坂と恵は、並んで一つのモニタを眺め、何かゲームにでも興じているようだった。恵 
  は、時折り笑みも浮かべ、今朝のショックからある程度は立ち直っているように見えた。 
   しかし、一方の早坂の表情は優れない。苛立ったように足を揺すりながら、恵に返す笑 
  顔もどことなくぎこちない。中島に襲われた張本人であるのだから、それも無理からぬこ 
  とであった。
   飛鳥はといえば、やはり険しい表情でパソコンに向かっているが、こちらは何か作業を 
  しているようである。特に、松崎から指示を出してはいないが、あるいはログの解析を続 
  けているのかもしれない。
   その手を止め、飛鳥が言った。
  「主任。やはり、連絡が遅すぎる気がします」
   飛鳥がその発言をするのは、これでもう三度目だった。
   そして、松崎もさすがに痺れを切らしはじめていたところだった。
  「もう一度、副所長と連絡を取ってみるよ」
  「お願いします」
  「ああ」
   松崎は、聡美に呼びかけた。
  (副所長。松崎です)
   返事はない。
  (副所長)
   松崎は、もう一度呼んだ。
   しかし、結果は同じだった。
   成り行きを見守る飛鳥に対して、松崎は首を振った。
  「副所長は――」と飛鳥が言った。
   一度、ためらうように飛鳥は言葉を切ったが、しかし、続けてこう言った。
  「本当に、警察に通報したのでしょうか?」
   松崎は、今朝、買ったばかりのカートンの二箱目に手を伸ばした。
   煙草をくわえ、覚束ない手付きで火をともす。
   聡美は、ポートを閉じているわけではない。パケットは捨てられていない。
   返事をする余裕がない、あるいは、無視を決め込んでいる。
   考えられるのは、こんなところだろうか。この時間だから、さすがに眠っているという 
  ことはあるまい。
   もっとも、体調が悪いのを隠して、押しているようだったから、仮眠を取っている可能 
  性もないとはいえないか――。
  「こちらから、警察に確認の電話を入れてみましょうか?」
   松崎は、少しの間思案して、その間に、煙草の先端から灰が、ぽとり――、と落ちた。 
   やがて、松崎が口を開いた。
  「連絡してくれ」
  「はい」
   飛鳥は受話器を取った。
   掛け違いか、フックを指で叩いた飛鳥に、松崎は「外線はゼロ発信だ」と声をかけた。 
  「いえ、そうではなくて。繋がらないのですが」
   飛鳥は、LANケーブルの接触を確認しながら、そう言った。
   松崎は吸いかけの煙草を灰皿でもみ消して、手元の受話器を取った。
   ダイヤルトーンが、しない。
  「こっちもだ。交換機のトラブルか?」
  「今朝は、正常でしたが」
   飛鳥は、それから「中島君の件で」とだけ言った。
   あまり話題にしたくない一件であった。
   飛鳥が「携帯でかけてみます」と、ポーチから携帯を取り出した。
  「電波が――」
   松崎も自分の携帯を手に取った。
   電波が立たない。
  「どうなっているんだ?」
   松崎が早坂たちの方を見ると、すでに二人も携帯を確認していた。
  「こっちも駄目ス」
  「私もです」
  「どういうことでしょうか?」
   飛鳥が訊いた。
  「分からん」と松崎は答えた。
  「妨害電波か、何かその類い。いずれにしても、こんなことができるのは、副所長くらい 
  のものだろう」
  「ええ」
   飛鳥が両手を広げ肩をすくめた。「そうでしょうね」
   あるいは――、と松崎は思った。
   教授、である。
   ふいに、思い付いたように早坂が言った。
  「そういや、昼、行ってきてもいいんスかね?」
   早坂は、そう言った後でバンダナを外し、クシャッと頭を搔きむしった。「というか、 
  今日、もう引けていいスか? 進展あったら、呼び出してくれていいんで」
  「ああ。構わない。そうしてくれ」
   早坂のいい加減うんざりした表情に、松崎はためらわずに許可を出していた。
  「すんません」
  「気にしなくていい」
  「恵は、どうするんだ?」
   早坂は振り返って、恵を見た。
  「まだ仕事があるから――」と恵は口ごもった。
  「僕から口添えしておいてもいいが」と松崎も言ったが恵は「いえ」と首を振った。
  は大丈夫です」
  「そうか」
  「まァいいや。とりあえず、俺は帰るわ。お先」
   背中を向けたまま軽く手をあげて部屋を出て行きかけた早坂を松崎が「いやて!
  と呼び止めた。
  「何スか?」
  「何か、外の様子が変だ」
  「え――?」
   松崎の視線の先、モニタにはネットワークカメラの映像があった。
   何気なく目をやったのは、管理室付近に設置された一台のカメラが送る映像。
   そこには、一人の職員の姿が、写されていた。
   モニタ越しのその職員は、正気を失った目を見開き、体を左右に大きく揺らしながら、 
  ゆっくりとカメラに向かって迫ってくるようであった。
   松崎は、早坂に見えるようにモニタを回した。
  「どうなってんだよ!」と早坂は唇を震わせた。
  「すぐ近くだ」
   松崎は席を立ち、ドアの鍵を確認した。
   それから、自分もモニタが見える位置に並んだ。
  「中島君と、同じか?」
  「多分、そうじゃないスか?」
   職員は、確実にカメラとの距離を縮めてきている。
   拳を掲げて、職員が大きく振りかぶった。
   映像が揺れた。
   二度、三度――。
   カメラの映像が、切れた彼の拳の血で赤く汚れていく。
   一段と大きく揺れた後、映像が回転した。
   カメラが叩き落されたのだ。
   写ったのは、廊下の床と。
   職員の足。
   向かっているのは――。
   ドアノブが、ガタガタと激しく跳ね動いた。
   皆の視線は、モニタから、今度はドアノブに釘付けになる。
   早坂が一歩後ずさり、恵も寄り添うようにドアとの距離を空けた。
   ドアはオートロックではあるが、職員であれば暗証番号を知っている。もっとも、サー 
  バルームの番号は別の番号になっているが、ネットワーク管理室自体は共通である。
   ドアノブの動きは、すぐに止んだ。
   暗証番号を押されたら――。
   サーバルームに避難するべきか?
   しかし、それはドシンという部屋全体への振動に変わっただけであった。
   発狂した職員は、どうやら、理性だけではなく、知能のレベルまで低下しているらしい。
   体当たりで、ドアを破るつもりか――?
  「主任――」
   飛鳥が松崎を見た。
   平素は見せない動揺の色が感じられた。
  「大丈夫だ」と松崎は言った。
   それは気休めではなく、サーバルームに繋がるネットワーク管理室は、特に造りが頑丈 
  になっている。
   体当たり程度で、破られるものではない。
   振動はしばらく続いたが、やがて、嘘のように室内は静寂を取り戻していた。
  「やってられるかよ――」
   早坂が吐き捨てるように言った後、部屋の隅のアルミ制の屑入れを蹴った。
   屑入れが、ぐしゃ――、と音を立ててひしゃげた。
  
  
  「石川さん、悪いんだけど――」
   怯えきった様子の恵に、松崎はためらいがちに話しかけた。
  「何でしょうか」
  「今の映像の職員、誰だか分かる?」
  「はい――。分かります。システムの、森村もりむらさんです」
  「システムの森村君ね。ありがとう」
   松崎は復唱した後、社員名簿を開いた。
   グループと名前で絞り込んで、検索をかけると、該当1件。
   詳細情報を表示すると、画面に顔写真と個人情報が表示される。
   監視モニタ越しに見た顔とは比較にならないほど穏やかな表情をしていたが、恵の記憶 
  は正しい。同一人物である。
   森村健一けんいち29歳。男性。独身。
   りん大学付属高等学校卒。同大学システム工学科卒。
   雨林大学は桐山教授が教鞭を取っていた大学で、松崎も同大学の出身である。
   寮通いフラグにチェックあり。
   寮通いの場合は、通勤手当てが出ないので、項目を設けているのである。
   中島も寮通いではある。もっとも、関係があるとも思えないが――。
  「主任――」
   飛鳥の引き攣った声が、松崎の思考を遮った。「どうやら――、森村さんだけでは、な 
  かったようです」
   飛鳥は、パソコンに見入っていた松崎に代わって、監視モニタを睨んでいた。
   十六分割されたそのモニタの、至る所に発狂した職員たちの姿が映っているのである。 
  「畜生!」と早坂が喚いた。
   松崎も喚きたい心境ではあったが、責任者である手前、彼は、ごくり――、と喉を鳴ら 
  すだけに留めた。
   恵が息を呑んだ、その口を押さえながら、「もしかすると――」と言った。「私のせい 
  かもしれません――」
  「石川さんのせい? どういうこと?」
  「昨日――、私、今、暴れている全員と――、話しています」
  「いや、偶然だろう。石川さんは、皆に話しかけているから――」
  「違うんです。話しかけた人、全員が、今、映っているんです。話しかけていない人で、 
  映っている人はいません――」
   松崎は、思わず眉根を寄せたが、すぐに気付いた。
  「いや、現に僕らは大丈夫じゃないか」
  「ええ――」
  「話って、何か特別な話をしたんですか?」
   飛鳥が口を挟んだ。
  「いえ――、松崎さんから伺ったことをそのまま伝えたのですが――」
  「僕から? 何の話?」と松崎は瞬いた。
  「ポートを、全て閉じるようにと」
  「その話か。それなら、僕も今、閉じているが全く平常だ。斎木さんも、早坂君もそうだ。
  石川さんは――?」
  「ええ、閉じてます」
  「だから、関係ないだろう」
  「でも、中島さんは――」
  「うん――」
   松崎は、ずれてもいない眼鏡を、一度、押し上げた。
   本当に、ポートの開閉が関係しているのだろうか。
   確かに松崎はポートを全て閉じていて、平常である。
   しかし、考えてみれば、全くというわけではなかったはずだ。
   例の幻視である。
   あの時、松崎はすでにポートを閉じた後であった。
   そして、関係ないと言い切った聡美。
   実際、彼女はポートを開け放している。
   逡巡の末に、松崎が出した結論は次のようなものであった。
  「ポートは、念のため開けておこう」
  「主任――」と飛鳥が驚いたように言った。
  「二転してすまない。実は、皆には伝えていなかったが、昨日、副所長と話した時、彼女 
  はプラセボだと言い切っていた。副所長は、何か情報を持っている。そして、副所長自身 
  は、ポートを開けている」
   試みに、松崎は聡美に話しかけてみた。
  (副所長――)
   もっとも、返事はなかったが、やはり、この状況下にありながら、聡美はポートを閉じ 
  てはいない。
  「最終的な判断は君たちに任せるが、僕は開けておいた方が無難なように思う」
  「副所長の言葉を信じるのですか?」
   釈然としない表情で、飛鳥が言った。
  「残念ながら、副所長は信用できない。彼女は、ヒューメネット研究を成功させることし 
  か考えていないようだ。この事件も、どうにかして揉み消すつもりだろう」
  「では、何故――?」
  「だからこそだよ。つまり、この研究を成功させるには、副所長自身がこの危機を乗り切 
  らなければならない。それに、この状況だ。僕以外からも耳喧しくクレームが入っている 
  だろう。なのに、彼女は依然ポートを開いている。逆にそこに真実があるように僕には思 
  われる」
  「分かりました」
   飛鳥は頷いた。
  「うん。僕も今、開けたところだ。一度、初期設定に戻した方がいい」
  「了解しました」
  「私もそうします」と恵も同調した。
   しかし、早坂が「あ〜あ」と投げやりな声を出した。
  「どうしたの?」
  「いや、何でも。とにかく、俺はいいスよ」
  「そう。まァ、僕も確信があるわけじゃないからね。任せる」
  「違くて。さっきも言いましたけど、帰ります。というか、辞めます。ここ」
  「ああ――」
   引き止める言葉も思い付かず、松崎は頷くしかなかった。「だが、今外に出るのは少し 
  危険だぞ」
  「何とかしますよ」
   早坂はぐるりと部屋を見回した後、サーバルームを映す強化ガラス越しに見えた、組み 
  立て式ラックに目を留めた。
   ラックはフレームにばらした状態で、壁際に横たえてある。
   サーバを入れ替えて台数を減らした時に余ったのだが、捨てるのはもったいなく、とは 
  いえ場所を取るので、ひとまず分解した状態で置いてあるのである。
  「あのばらしてあるラックのフレーム、一本持っていっていいスか? 得物があった方が 
  いいス」
  「分かった。許可しよう」
  「外出たら、俺から警察に連絡しますよ」
  「くれぐれも気を付けてくれよ」
  「あい」
   早坂は暗証番号を押してサーバルームに入ると、言葉通り、ラックの黒いフレームを一 
  本持ち出してきた。
   36Uの大型ラックのフレームである。1Uとは高さの単位で一・七五インチ。四四・四 
  五ミリメートルに当たる。36Uならば、フレームの長さは一・七メートル近くになる。
  「恵はどうする?」
   ラックのフレームで手のひらを叩いて感触を確かめながら、早坂が恵に訊いた。
  「私は――、怖いからここで待っている」
  「そか。好きにしろ」
   恵の返答に、早坂は少しだけ不機嫌になったようだった。
   先ほどもそうだったが、早坂は婉曲に恵を誘っているつもりだったのかもしれない。
  「ごめんね」と恵が早坂に謝った。
  「いや。いいよ」
   早坂は首を振った。
   それから、彼は監視モニタを見て、近くのカメラに発狂者の姿がないのを確認すると、 
  「んじゃ、帰りますわ」と言って、くるりと踵を返した。
  「気を付けてね」と恵がその背中に声をかけた。
   早坂は、無言のままネットワーク管理室を出て行った。
   松崎は監視モニタを睨んで、早坂の姿を追った。
   モニタの中で、早坂は渡り廊下に差しかかったところだった。
   しかし、どういうわけか、早坂はそこで少しの間立ち止まってしまった。
   何をやっているんだ――? と松崎は訝った。
   しかし、すぐに思い当たった。
   今朝の幽霊騒動である。
   そんなことを気にしている場合ではないだろうに――!
   松崎は、思わず煙草に手を伸ばしていた。
   それからふと恵が部屋の中にいるのを思いだして松崎は「ちょっと吸ってもいい?
  と彼女に尋ねた。
  「どうぞ、お構いなく」と恵は答えたが、松崎は一瞬だけ顔色に表れた彼女の嫌気を見逃 
  さなかった。
  「苦手なら言って。本来は禁煙なんだから。サーバルームの中で吸う」
   松崎がそう言うと、恵は「実は、あまり得意ではありません」と正直に答えた。
  「了解。ごめんね」
   恵に謝罪した後、松崎は灰皿を手に取ってサーバルームに移ろうとした。
   まさに、その時だった。
  「主任!」と飛鳥が鋭い声を上げた。
   振り返ると、恵も口元を覆っていた。
   松崎が駆け戻って、モニタを確認すると、早坂が発狂者に追われているところだった。 
   早坂は、慌てた様子で本館の方に駆け込んでいく。
   エレベータの前を駆け抜けて、廊下の突き当りを左へ。
   しかし、その先の監視カメラには――!
  (そっちに行っちゃ駄目だ!)
   松崎はヒューメネット通話で早坂に叫んだ。
   網膜に投射された仮想モニタに表示された結果は――。
   
   ERROR: No Response from y_hayasaka [172.17.2.4]
   
   応答なし。
   残酷なエラーログであった。
   早坂は、ポートを閉じているのである。
   松崎の指示を聞き入れず、早坂は一人、ポートを開けなかった。
  (早坂君――!)
   松崎は無駄と知りながら、それでも必死で早坂に呼びかけていた。
   
   ERROR: No Response from y_hayasaka [172.17.2.4]
   
  (早坂君――!)
  (早坂君――!)
  (早坂君――!)
   
   ERROR: No Response from y_hayasaka [172.17.2.4]
   ERROR: No Response from y_hayasaka [172.17.2.4]
   ERROR: No Response from y_hayasaka [172.17.2.4]
   
   恵が泣き出していた。
   飛鳥が、十六分割されたモニタの一つを別の映像に切り替えた。
   早坂の姿は、それでモニタから消えた。
   入れ替わるようにして、松崎の目の前に、突然、一人の男の姿が映った。
   冬服を着た小太りの男。
   恵と会話した直後に見た、かつて部下だった男の像である。
   お前、何で研究所を辞めた――?
   何故、そんな悲しい瞳で俺を見つめる――?
   幻視が、再び松崎を苦しめていた。
  
  
    〈三日目〉
  
  
   ネットワーク管理室から動けずに、そのまま夜になった。
   日付が変わっていた。
   恵は、泊り込み用の毛布にくるまって、静かな寝息を立てている。泣き疲れて、そのま 
  ま眠ってしまっていた。
   業務内容上、泊まりがけになることも多く、ネットワーク管理室には寝具が常備されて 
  いた。
   飛鳥も、同じように毛布に身を包んで眠っている。
   状況の変化に耐えられるよう、松崎と飛鳥の二人は交替で睡眠を取ることに決めた。
   松崎は、照明を落とした室内で、腕時計の文字盤に目を落とした。
   コンピュータ彫りの文字盤と針は蛍光塗料が塗られていて、暗がりでも時刻が読めなく 
  なることはない。
   深夜二時。五分を回ったところ。
   交替の時刻は二時きっかりで、本来であれば交替の時間をほんの少しだけ過ぎていた。 
   だが、責任者の手前、部下を休ませたかった。
   それに、寝付ける自信もなかった。
   もっとも、それは飛鳥も同じだったようだ。
   交替を告げるまでもなく、飛鳥が毛布から、するする――、と起き出してきた。
  「時間ですね」
   恵に気を遣って、飛鳥は小さめの声を出した。
  「眠れなかった?」
  「あまり。少し、うとうととはしたかもしれません」
   飛鳥はそう答えた後、少しだけ付いた寝癖を搔き上げるように左手で髪を触った。
  「僕も眠れそうにないから、このまま起きているよ」
  「そうですか。分かりました」
   飛鳥は頷いた後、監視モニタに目をやった。
   十六分割された画面の、どこにも発狂者が動き回っている様子は映っていない。
  「外、静かになったようですね」
   感情の消えた声で、飛鳥がそう言った。
  「うん」
   試みに別のカメラの映像に切り替えてみても、それは同じである。
   もっとも、文字通りの意味であって、すでに動かなくなった発狂者の遺体は、ごろごろ 
  と転がっている。
   発狂者が互いに殺し合う姿を、松崎はずっと見ていた。
   映像を何度か切り替えている内に、飛鳥が「あ――!」という声を出した。
  「どうかした?」
  「さっきの映像に戻してくれますか?」
  「いいけど」
   松崎は、監視カメラの映像を一つ戻した。
   十六台のカメラの映像の内、飛鳥が示したのは北館と本館の間の渡り廊下を映したそれ 
  であった。
   渡り廊下に、影ができている。
   映像を全画面に拡大すると、それはよりはっきりと確認できた。
   黒い、大きな人影が映っているのである。
  「例の、幽霊というのは、恐らくこれのことでしょうね――」と飛鳥が言った。
  「ああ。だが、この影、どこから落ちているんだ?」
  「分かりません。今、明かりが点いている部屋は――?」
  「見てみるか?」
   松崎は椅子の向きを反転させてパソコンに向き直り、消灯確認用のアプリケーションを 
  起動した。
   職員名簿同様、システム開発班が組んだものである。
   研究所の間取りを再現して、各部屋の照明が点いていればその部屋は橙色で塗られる。 
   部屋だけではなく、廊下も同様の扱いである。
   間取りはクリッカブルになっていて、詳細にどの照明が消えていないかまで判定してく 
  れるため、一々、消灯確認のために広い研究所の中を回らずに済むのである。
   これを利用すれば、光源を特定することが可能と思われた。
   しかし、予想に反して、それは困難を極めた。
   平素であれば、この時間、すでに消灯しているはずだが、実際は、ほとんどの部屋に明 
  かりが点いていた。
   試みに、一部屋を監視カメラに出してみると、ばたり――、と倒れこんだ職員の姿を、 
  点けっ放しになった蛍光灯が煌々と映し出していた。
   発狂者に殺されてしまったのか。
   照明を落とすべくもない。
   松崎は、それでも、一階、二階――、と照明の状態を確認していった。
   そして、五階の間取りを出した時、松崎は思わず声を上げていた。
   所長室が橙色に塗られている――!
  「教授が、戻っている!」
   松崎は、上ずった声を出した。
  「そのようです――」
   モニタを隣りで覗き込みながら、飛鳥が頷いた。
   他の部屋と違い、所長室は監視カメラが入っていないため中を映せない。
  「行ってみるか?」と松崎は、飛鳥に尋ねた。
   外に発狂者の姿はない。
   少なくとも、早坂が出て行った時ほどの危険はないはずだ。
  「行きましょう」と飛鳥は頷いた。「石川さんは、どうしましょう?」
  「取りあえず、起こそう」
  「分かりました」
   飛鳥が恵を起こしている間、松崎はサーバルームに行き、早坂がそうしたように{36Uラ 
  ックのフレームを、彼が持ち出した都合、ちょうど三本残っているのを手に取って、持っ 
  てきた。
   飛鳥に起こされた恵が、まだ眠い目をこすりながら「所長が戻ってきたそうですね」と 
  松崎に言った。
  「ああ。僕らは行こうと思っているんだが、石川さんはどうする?」
  「私も行きます。一人は怖いので」
  「分かった」
   松崎は「はい。護身用に」と言って恵にフレームを手渡した。
   恵が、少し表情を暗くした。
   早坂のことを思い出させてしまったようだったが、やむを得まい。丸腰で出かけていく 
  よりは、ずっといい。
   松崎は、飛鳥にもフレームを渡した後、「よし」と気合を入れた。「行こう。所長室へ 
  ――」
  
  
   北館を出て渡り廊下を通り、本館へ。
   影は、もう消えていた。
   もしも、あれが所長室から落ちている影だったとしたら、急がなければならない。
   本館のエレベータは五階で停止していて、松崎は下りボタンを叩いた。
   あるいは、階段の方が安全か――?
   だが、エレベータならば挟まれる心配はないか――。
   逡巡している間に、エレベータの階を示すランプが、5、4、3、2、1、と下ってき 
  ていた。
   扉が開く前に、松崎は女性二人を少しだけ下がらせて身構えた。
   もっとも、中に発狂者の姿はなかった。
   エレベータに乗り込み、五階へ。
   扉が開く。
   誰も、いない。
   所長室は、廊下の最奥である。
   廊下には、殺された職員が倒れている。
   白衣は、医療研究班のものである。
   この階にも、発狂者がいるようだ。
   最初の曲がり角で、松崎は壁に背を付けて、顔だけを廊下の向こうに覗かせた。
   誰もいない。
   次の曲がり角も、同じようにして顔を覗かせて――。
   目の前に、にたりと笑う発狂者の顔があった。
  「うわッ!」と声を上げて、松崎は咄嗟に顔を引いた。
   曲がり角から現れた発狂者に、女性二人が悲鳴を上げた。もっとも、一拍ほど悲鳴の方 
  が早かったから、それは松崎の声につられて上げたものだったのかもしれない。
   発狂者はやはり白衣を着ていて、医療研究班の人間である。
   松崎がフレームで思い切り突き出すと、それは発狂者がだらしなく開いた口の中にもろ 
  に刺さった。
   発狂者は呻き声を上げて、堪らず両腕でフレームを摑んで押し戻そうとするが、松崎は 
  そのまま壁まで押しやった。
   発狂者がゴホッと咳き込み、血飛沫を吐いた。
   白衣が、血の赤で染まっていく。
   発狂者は、壁に押しやられたまま崩れ落ち、呼吸ができないのか、大きく見開いた目を 
  血走らせ、苦悶の表情を浮かべながら、伸ばした両足をばたばたと動かした。
   しかし、松崎はフレームを押し込む手を緩めなかった。
   最期に、一際大きく咳き込んだ後、発狂者はぴくり――、とも動かなくなった。
   松崎は肩で息を切らし、体中を汗でぐっしょりと濡らしてた。
   ようやくのように発狂者の口内からフレームの先端を引き抜いた後、左手を放してワイ 
  シャツの袖で顔の汗を拭おうとして、そこに血痕が付いているのを知った。
   右腕の袖も同じようだった。
   どうにも気味が悪く、松崎はワイシャツの襟元を引っ張って汗を拭った。
   後ろを振り向くと、女性二人が表情のない顔を松崎に向けていた。
  (人殺し――!)
   誰かの声が聞こえてきた。
   昂ぶった気がそう感じさせたのだろう――。
   初め、松崎はそう思った。
   しかし、そうではなかった。
   仮想モニタに、ヒューメネット通話のログが残っていた。
   
   Message from m_ishikawa [172.17.1.14]
   > ヒトゴロシ
   
  「もう一遍言ってみろ! おい!」
   突然の怒声とともに、松崎は恵の襟首を鷲摑んでいた。
   思わず恵が悲鳴を上げていた。
  「主任! 正気ですか!?
  「正気だ! 狂っているのはこの女の方だ!」
   憤怒の形相で松崎が、摑んだ恵の襟首を揺すった。
  「ちょっと、落ち着いてください。石川さんが何か――」
  「そんな、私、何も――!」
  「ふざけるな、糞女! 自分では何もしていないくせに人を罵りやがって! そのくせ自 
  分は生きていて当然だと思っているんだろう! どうなんだよ! 言ってみろ!」
  「私、何も言っていません――!」
  「ヒューメネットはなァ! ちゃんと全部の会話がログに残るんだよ! ログを丸ごとそ 
  っちに転送してやろうか!」
  「でも――、言ってません――。罵ってなんか――」
   最後は涙声になって、恵は必死で弁解した。
   松崎も、少しだけ冷静になって、そして、はたと気付いた。
   恵は、広報班である。
   先ほどのメッセージのIPアドレスは 172.17.1.14 だった。
   だか考えてみればサブネット 172.17.1.0/24 は医療研究班に回しているIPアド
  レス域である恵は広報班なのだから 172.17.4.0/24 の範囲にあるIPアドレスから
  られてくるはずなのだ。
   松崎は、過ちに気付いてすぐさま恵を解放した。
  「悪い――。勘違いした。すまない――」
  「一体、どうしたんですか――?」
   飛鳥が訝って尋ねた。
  「 m_ishikawa というIDに、今、ヒューメネット通話で罵られて――、それで、石川さ 
  んだと勘違いした」
  「石川、昌之まさゆきさんなら、その人です――」
   恵が指差したのは、今、松崎が殺した、白衣の発狂者であった。
   脳内の通信端末のファイアウォールを初期設定に戻したため、全員の通話を受け付ける 
  ようになっていた。
   今わの際に、松崎を罵倒したのか――。
  「私のIDは mg_ishikawa なので――」
  「すまない――」
   松崎は深く頭を下げた。
  「いえ――」
   恵は、まだすすり泣いていたが、それでも松崎を非難しなかった。
   飛鳥も何も言わず、「先を、急ぎましょう」と促した。
  「ああ――」
   松崎は血の付いたフレームを震える拳で握り締めながら、覚束ない足取りで再び廊下を 
  歩き始めた。
   
   Message from mg_ishikawa [172.17.4.3]
   > サキホドノコトワキニシナイデクダサイ
   
   ふいに恵から松崎を気遣う通話が入って、それが余計に彼の胸を痛めた。
   松崎にも冷静でいられなくなるだけの充分な理由があった。
   発狂者とはいえ、初めて人を殺したのだ。
   初めて――?
   松崎は、不気味な既視感に襲われていた。
   以前にも、似たようなことがあったような――。
   そうだ。確かにあった。
   あの時、同じように誰かを――。
   誰だ――?
   そうだ、あいつヽヽヽだ。
   大森おおもり君。
   松崎はようやく、かつての部下の名前を思い出した。
   一昨年の冬、俺は大森君を殺した。
   突然、気が狂ったように暴れだした大森君をどうにか押さえ付けて、LANケーブルで 
  首を絞めて殺した。
   腕を押さえていてくれたのは――、中島君だった。
   足を押さえていたのは、聡美ではなかったか。
   いつだ――?
   それ以前に、何故、俺はそんなことも忘れて、平然と仕事を続けているんだ?
   いや、俺だけじゃない。
   中島君だって、一言も蒸し返さなかった。
   まさか、中島君も忘れていたのか――?
   記憶を、消された?
   誰に――?
  
  
   とうとう所長室の前に辿り付いた。
   所長室は、廊下側に窓がなく、中の様子は窺い知れない。
   ドアのサインプレートは、不在を示している。
   もう教授はどこかへ行ってしまったのだろうか――。
   暗証番号錠の付いたドアも固く閉ざされていて、ドアノブを捻っても開くことはない。 
   ドアをノックしても反応はない。
   入力端末のパネルを開いて、試みに研究所内の各部屋共通の暗証番号を打ち込もうとし 
  て――。
   ふと、松崎の脳裏に全く別の番号が浮かんだ。
   8、0、2、7、4、1――。
   指が、勝手に動いていく。
   6、3、9、5、2、4。
   全く意味のない数字の順列。
   何故、それが突然、松崎の頭の中に浮かんだのかは分からない。
   しかし。
   ジィィ――、と施錠が外れる音。
   隣りで、飛鳥が息を呑むのが分かった。
   当の松崎自身も驚いていた。
  「知って、いらしたのですか――?」
  「どうやら――、僕はここに入ったことがあるらしい」
   松崎がゆっくりとドアノブを引いた。
   案の定、中は真っ暗であった。
   廊下の天井の蛍光灯が所長室の入り口付近を照らして、壁付の照明スイッチを映してい 
  てた。
   松崎は手を伸ばして、それをバチ――、と切り替えた。
   目の前の光景に、松崎はごくり――、と生唾を飲み込んだ。
   百平米の広い室内を、高さ二メートルほどの巨大なガラス容器が、ずらりと並んで埋め 
  尽くしていた。
   容器には黄色い液体が満たされていて、中には人体と思われる標本が入っている。
   ホルマリン。
   液体の色は、肌の色素が抜け落ちたものだろう。
   もっとも、教授の専門は医療研究であるから、こうしたサンプルを抱えていても不思議 
  ではないが――。
   不気味には違いなかった。
   やはり、渡り廊下の影は、この部屋の明かりが漏れたものかもしれない。
   ホルマリン漬けの人体が、ガラス容器を凹レンズの代わりにして、室内のカーテンを開 
  けた時にでも巨大な影を落としていたのではあるまいか。
   林立するガラス容器は渦巻状に並べられていて、容器が作る通路は部屋の中心まで続い 
  ている。
   通路の幅はそれほど狭くはない。両手を伸ばすと、ちょうど左右のガラス容器に手が触 
  れるくらいの幅で、三人で横に並ぶのは少し窮屈であろうか。
   松崎たちは、少しだけ離れて、その通路をゆっくりと歩き始めた。
   歩きながら、標本を観察するともなく目に入れて――。
   松崎は「うっ!」と思わず声を漏らした。
   容器の一つの中に、ホルマリン漬けの大森がいた。
   大きく見開いた目。
   苦しそうに身を捩り、右腕を伸ばしたその姿は、松崎に首を絞められ、息絶え、そのま 
  ま硬直した時の格好であった。
  「兄さん――!」
   金切り声が響いた。
   飛鳥だった。
   松崎は、人形のようにぎこちなく首を動かして、飛鳥を見つめた。
  「大森君が――、君のお兄さん――?」
   飛鳥は、呆然として、すぐには答えなかった。
   容器を内側から触れる大森の右手に、ガラス越しに左手を重ねるように触れた後、飛鳥 
  は俯いた。
   それから、飛鳥は「ええ――」と頷いた。
  「苗字が、違うが――」
  「私は母の姓です。離婚して、別々に引き取られたので――」
  「そう――」
  「兄の消息を追ってきたのです――」
  「そうか――」
  やっぱりヽヽヽヽ――」と恵が呟いた。
  「どういうこと――?」
   飛鳥が恵を見据えた。「兄を、知っているの――?」
   恵は、飛鳥に頷いた後、「松崎さん――!」と言った。
   恵に名前を呼ばれて、松崎はどきり――、とした。
   まさか、石川さんは――。
   僕が大森君を殺したことを、知っているのか――?
   しかし。
   恵が言おうとしていたのはそのことではなかった。
  「やっぱり、ネットワーク管理班に、もう一人いたんですよ! 私、どうして忘れていた 
  んだろう――!」
   先日、廊下で会った時に松崎と恵が交わした会話のことであった。
  「ああ――」と松崎は重く頷いた。「僕も――、どういうわけか、忘れてしまっていたん 
  だ。大森君は、確かに僕の部下だった。早坂君が入る前に――、優秀な奴がいたと、斎木 
  さんにも、いつか話したね。あれは、大森君のことだった――。なるほど、そうか。君の 
  お兄さんなら、そうだろう――」
   松崎は喘ぐようにそう言った。
   しかし、自分が殺したことまでは、どうしても言い出せなかった。
   松崎自身、どうして殺したのかまでは思い出せていない。
   だが、わずかに取り戻した記憶の断片から推測すると、大森はすでに発狂していた可能 
  性がある――。松崎は、そう考えていた。
   一昨年の冬、この研究所で、おそらくは今回と同じような事故が起きた。
   それが、どう決着したのか――、日常を取り戻した。
   関係職員の記憶を抹消したのだろうか。
   松崎だけでなく、中島、そして石川までもが記憶を失っていたのであれば、その可能性 
  が極めて高い。
   記憶を操作したのは、教授か。聡美か。
   容器が作る通路の最奥、部屋の中心まで歩いて、それは結論に達するに至った。
   部屋の中心は、少し広い空間が残っていて、その空間の中心に、周囲の容器から少し離 
  れて、一つ、ガラス容器が置いてあった。
   ホルマリンに漬かっていたのは――。
  「教授――!」
  
  
  「見つけちゃったの――?」
   声に振り向くと、聡美が立っていた。
  「桐山さん――」
  「番号、覚えていたのね」と聡美は黒縁眼鏡の奥で微笑んだ。
  「これは、一体、どういう――」
  「ヒューメネットは、一回――、失敗しちゃったのよ」
  「失敗――?」
  「ええ。SSHoH の実験の最中だった」
   人間の遠隔操作実験のことである。「他人の体に接続して、ログイン、データ転送、遠 
  隔操作、どれも想定通りに上手くいったわ。もっとも、動物実験では遠隔操作は成功して 
  いたからね。でも、最後にログアウトをした時に――、それは発覚したの。操作された側 
  の研究員が、突然、気が狂ったように暴れだしたのよ」
  「それは――」
   松崎は、ごくり、と喉を鳴らした。
  「あなたの班の中島博君もそうね。おそらく外部からデータを転送する時に、消してはい 
  けない領域に上書いてしまっていたようなの。コンピュータのメモリ管理と同様に、どう 
  やら人間の脳にも禁止領域があったようね。動物実験では確認できなかったから、それは 
  多分、人間の理性のようなものではないかしら」
   聡美は感慨もなく、そんなことを言った。
  「では――、中島君が暴れだしたのは――、では、その不具合を知りながら、実験を繰り 
  返したということなのか――!?
   松崎が強い口調で詰問すると、聡美は「そうではないわ」と首を振った。
  「現在はすでに不具合は解消されているもの。彼がああなったのは、直近のことではない 
  のよ。今週とか、先週とか、そういう話じゃないの。彼は、もうこの二年間、ずっと狂い 
  続けていたのよ」
  「狂い続けて――? 馬鹿な! ずっと普通に仕事をしていたじゃないか!」
  「それはそうよ」と聡美は笑った。「私の説明をちゃんと聞いていなかったの? ログア 
  ウトした時に発狂したの。誰かがログインしている間は大丈夫なのよ」
  「中島君を――、操っていたのか?」
  「いいえ、操っていたわけではないわ。それでは一人に対して、掛かりっきりになってし 
  まうもの。私のアカウントでログインして、そのまま放って置いただけ。幸い、それで大 
  丈夫だったから。さっきも言ったけど発狂するのはログアウトした時なのよ。ログアウト 
  と同時に、脳内に外部から送り込まれて、そのまま消えずに残ったデータの残骸が異物と 
  認識されるようねだからせめて SSHoH で利用する22番のポートだけは勝手に閉じら
  れると困るのよ。強制的にログアウトさせられちゃうじゃない」
  「君は――、まともじゃない。それがたとえ二年前だろうと、不具合を知りながら中島君 
  にログインした事実は変わらない。最初の被験者は――、彼ではなかったはずだ」
  「あなた、思い出したの?」
  「ああ――」
   それが、大森である。
  「そう。ちゃんと記憶を消去できていなかったようね。もっとも、脳の記憶の仕組みはま 
  だ完全に解明されたわけではないから、それも無理からぬことね」
  「君は――、僕の中に入って、記憶を削除したな――?」
  「そうよ」と聡美は頷いた。
   それから、聡美は松崎の背筋を凍り付かせる一言を発した。
  「だから、あなたもすでに発狂者ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽなのよ」
  「僕が――、発狂者――?」
   松崎は、喘ぐようにそう口に出した。
   いや、松崎だけではない。
   同様に記憶を失っていた恵も、おそらくはそうであろう。
  「試しにポートを閉じてみたら? 人によっていつ発症するかには多少の差があるようだ 
  けれど、何らかの変調くらいは感じるんじゃない?」
   変調――。
   あの、幻視がそうか?
   今は、聡美がログインし直したのか、幻視に襲われる予兆はない。
   二度目の幻視に襲われた時はポートをすでに開けていたが、開放して間もなくのことで、
  すると、聡美がリログインする以前だったのだろう。
  「あるいは、試しにログアウトしてみましょうか――?」
  「やめてくれ!」
   松崎は、思わず叫んでいた。
  「信じたようね」と聡美は妖しく微笑んだ。「心当たりでもあるのかしら――?」
  「もういい――」
   松崎は力なくうなだれた。
   聡美はそれを見届けた後、視線を恵に向けた。
  「石川さん、あなたもそうよ」
   恵は、聡美に言われるまでもなく気付いていたのか、口を押さえてすすり泣いていた。 
   それから、聡美は飛鳥の方を見た。
  「斎木さん。あなたは正常よ。残念だけどね」
  「どうなさる、おつもりですか――?」
   飛鳥が尋ねると、聡美は首を振った。
  「さすがに、今回の障害は大規模すぎたわ。もう潮時なのかもしれないわね」
   聡美はそう述懐した後、「終わりにしましょう」と言った。「松崎さんと、石川さんは 
  残りなさい。あなたたちは、もう戻れないのよ。分かってちょうだい」
  「私――、まだ、死にたくない――」
  「諦めなさい。もう半分死んでいるようなものなんだから。斎木さん、あなたは帰って構 
  わないわ」
  「副所長は――?」
  「もう少しここにいるわ。あなたの他にも生存者がいるかもしれないし。発狂者ではない、
  本当の意味での生存者ね。一昨年に起きた事故より後に入った職員は一応全員、助かる可 
  能性があるわ」
   聡美は、三人の間を通り抜けて、教授を漬けたガラス容器の向こう側に回った。
   そこには、どうやら一台のパソコンが置いてあったようで、聡美はそれを起動して、何 
  かの調査を始めたようだった。
   それから、ふと顔を上げて、まだ呆然として立ち尽くしていた飛鳥に「まだそこにいた 
  の?」と尋ねた。「あなたは行っていいのよ」
   飛鳥は松崎を一度見つめて、二人は視線を交わした。
   松崎は、自嘲気味に笑った後、「行って」と言った。
   飛鳥は、こっくり――、と頷くと、ガラス容器の通路を引き返していった。
   恵がそれを追いかけようとして――。
   突然、ばたり――、と倒れた。
   それは、何かにつまずいたというのではなくまるで電池でも切れたかのようなそんな
  倒れ方であった。
  「石川さんは行っては駄目だと言っているのに」
   聡美が、溜め息交じりにそう言った。
   聡美の仕業だったようだ。
   松崎は、ゆっくりと聡美に歩み寄り、彼女のパソコンのモニタを恐る恐る覗き込んだ。 
   聡美が最後に打ち込んだコマンドは――。
   
   s_kiriyama@172.17.4.3> shutdown -h now
   
   黒背景の SSHoH 用ターミナルのコマンド履歴に残る不気味な終了命令を光灯の
  い明かりが煌々と照らしていた。
   恵からの応答を失い、入力を受け付けなくなったターミナルを、聡美は閉じた。
   代わって最前面に来たウィンドウも、やはり SSHoH 用ターミナルであった。
   
   s_kiriyama@172.17.2.2> shut_
   
  「待ってくれ!」と松崎は叫んだ。
   172.17.2.0/24 のアドレス域は、ネットワーク管理班のものである。
   IPアドレスの最後、2番は――、紛れもなく松崎に割り振られた番号である。
   
   s_kiriyama@172.17.2.2> shutdown_
  
  「やめろ!」
   
   s_kiriyama@172.17.2.2> shutdown -h now_
   
  「やめてくれ――!」
   松崎の悲痛な叫び声が、所長室に響いた。
   
   
   エレベータを下りて本館を出た飛鳥に、突然、通話が入った。
  (斎木さん――)
   声は、松崎のものであった。
  (松崎さん。どうかしたのですか――?)
  (今、どこ?)と松崎は尋ねた。(話しかけて大丈夫――?)
  (本館を出たところですが――)
  (そう――。最後に、お別れを言いたくて――)
  (死ぬのですか――?)
  (うん)と松崎は頷いた。(もっとも、君なんだけどヽヽヽヽヽヽね――)
  (え――?)
   飛鳥の頭の中で、ピー、というビープ音が聞こえた。
   それから、視界が暗転して、その後のことは彼女にはもはや分からなくなった。
   
   
   所長室のモニタに、起動したばかりのターミナルが映っていた。
   コマンド履歴の文字列を、松崎はただ呆然と見つめていた。
   
   s_matsuzaki@172.17.2.5> shutdown -h now
   
   右手の薬指に、確かにエンターを叩いた感触が残っていた。
  (斎木さん?)
   松崎は、飛鳥に呼びかけてみた。
   応答は、ない。
  (斎木さん――?)
   もう一度、呼びかけても、それは変わらない。
   少し、遅れてエラーログが仮想モニタに書き出された。
   
   ERROR: Cannot connect to a_saiki [172.17.2.5]
   ERROR: Cannot connect to a_saiki [172.17.2.5]
   
   二件のエラーメッセージ。
   ポートを閉じた時とは内容が異なる。
   ファイアウォールの設定などではなく、もっと物理的な理由ヽヽヽヽヽヽで通信が届かなかったこと 
  を示すメッセージであった。
   松崎は、それを見届けると深い溜め息をついた。
   隣りでは、聡美が含み笑いを浮かべていた。
   聡美が唇を求めてきて、松崎は拒むことはできずに、それを吸った。
   唾液が、粘り気のある糸を引いた。
   その聡美の唇が、ゆっくりと動いた。
  「研究を続けましょう。もうすぐリリースよ」
  
                                       終わり