静かな雨音がよりいっそう私に孤独を感じ 
  させた。
   森に迷い込んでから、一体どれくらい経っ 
  たのだろう。五日くらいだろうか。一週間も 
  過ぎたのだろうか。立ち並ぶ樹木の厚い葉に 
  遮られて昼夜の判別すらつかないため、時間 
  の経過が全くつかめない。
   だいぶ以前に食料は尽きた。
   ずっと雨を凌いでくれた傘までも、先ほど 
  木の枝に引っかかり裂けてしまった。今では、
  せいぜい杖の代わりにしかならない。
   冷酷に降りしきる雨は一向にやみそうもな 
  い。
   溜息ためいきをつけば白い霧となって消えていく凍 
  えるような寒さの中、私はちぎれるようにか 
  じかむ両手を吐息で温めながら、ただひたす 
  らに歩き続けた。
   鉄の棒のようになった両足が悲鳴を上げて 
  いても、私は聞こえないふりをした。
   しかし、歩いても歩いても樹海が開ける様 
  子はない――。
   今にして思えば、私は半ば自分の力を過信 
  していたかもしれない。入念な見聞や下準備 
  を怠ってしまった。全く、らしくない。
   私は冒険家として、少しは名の知られた男 
  だった。有名誌に手記が掲載されたことも一 
  度限りではない。自分でも気付かぬうちにてん 
  になっていたのかもしれない。
   私は無駄と分かっていながら、それでもわず 
  かな期待を込めて、デニムズボンのポケット 
  から方位磁石を取り出だした。
   磁石はクルクルと回転したまま、一向に北 
  を示す気配は、やはりなかった。この辺りの 
  石は磁力を持っているらしく、磁針が全く役 
  をなさない。
  嗚呼ああ――」
   思わず嘆傷の声を私は漏らした。
   嘆きの森――成程、そうか。
   風に樹木が揺られて出す不気味な音が、人 
  間の嘆き声に聞こえると言うのが由来だとい 
  うことだったが、実際にこうしてその中に本 
  当に人間の嘆きも混ざっているのである。
   私は、このまま死ぬのだと思った。凍死す 
  るのが先か、餓死するのが先か――。
   これも天命ならば、と腹をくくりたいが、 
  己のあさはかさが招いた結末だけに情けない 
  どころの騒ぎではない。
   それにしても、死と言うものがこんなに身 
  近なものだとは思いも寄らなかった。
   冒険家という稼業柄、よく死と隣り合わせ 
  などという言葉を使うが、それは口から出任 
  せのつもりでいた。
   そんな連日危険にさらされるような仕事で 
  あれば、とっくに私は辞めていただろう。
   私は自分が死ぬなんてことは、考えてもい 
  なかったのだ。
   疲弊しきった体を引きずりながら、暗い森 
  の中を私はひたすら歩いた。冷たい雨は次第 
  に私の体力、そして気力をもむしばんでいく。
   もうこれ以上歩けない。そう思った時だっ 
  た。
   目の前の光景に、私は己の目を疑うことに 
  なる。
   前方にかすかにだが、明かりが見えるではな 
  いか。
   きっと錯覚だろうと思った。私の生にしが 
  みつく思いが、幻覚を見せたのだと。
   私は目を閉じた。
   呼吸を整えてからゆっりとまぶたを上
  た――間違いない。確かに明かりは存在して 
  いる。
   私は、足元に注意を払いながら、少しずつ 
  近づいていった。
   途中、嫌な予感が胸をよぎった。
   まさか、人魂だろうか――?
   そういう噂を幾度も耳にしていた。森に迷 
  い込み、そのまま息絶えてしかばねとなった人間 
  の、断ち切れない未練が霊魂となってさまよ 
  うのだという。
   慎重に慎重に歩を進め、やがて私は明かり 
  の正体を突き止めるに至った。
   それは人魂ではなかった。
   目の前には古びた洋館の外灯が、ほのかな光 
  をたたえていた。
  「助かった、のか――?」
   私は門の錆びついた格子戸を開け、洋館の 
  敷地内に足を踏み入れた。
   庭の草木は、全く手入れがなく、伸びきっ 
  ていた。
   所々崩れた石畳の上を歩きながら、私は誰 
  か人のいることを願いつつ玄関の扉の前に立 
  った。
   扉に取り付けられた獅子をかたどるノッ
  ーを、私は二回鳴らした。
   反応はなかった。
   もう一度試みたが、やはり応答はおろか、 
  人の気配すら感じられなかった。
   誰か、いないのか!
   私は祈るような思いで、三度ノッカーに手 
  を掛けた。
   その途端、巨大な扉がゆっくりと、激しく 
  きしみながら開いたのである。
   その先には、一人、老人の姿があった。
   顔には無数のしわがたたまれ、齢八〇は疾う 
  に過ぎていると思われた。
   私は急激に訪れたあんと、疲労感から、そ 
  の場にへたり込んでしまった。
  「どう――なされましたかな」
   老人が先に口を開いたどくしわがれた
  だった。
   私はおもむろに起きあがって、「断わりな 
  く訪問した非礼をおびします」と深々と頭 
  を下げた。
  「大変厚かましいことですが、どうか私を家 
  の中へ入れてはいただけませんか――? 凍 
  えて死にそうです」
  「その様子では、森に迷われたのでしょう。 
  時折りそうした方々が、この館を訪れますよ。
  まァとにかくお入り下され」
  「どうも、すみません」
   私はもう一度深く御辞儀をした。「それと 
  ――非礼を重ねるようで、何とも心苦しいの 
  ですが、できれば何か食べ物もいただきたい 
  のですが」
  「すぐにお出ししましょう。まァそんなに腰 
  を低くなさらずに」
   好々爺は、顔に更に皺をつくって優しそう 
  に笑った。
   しかし、そのすぐ後に老人は真顔になって、
  「ただし――」と切り出した。あまりの表情 
  の変化に、私は思わずゴクリとつばを飲み込ん 
  だ。
  「ただし、何なのです?」
  「お気をつけ召され。この辺りには、ちと物 
  騒な奴がおりまして」
  「狼か何かですか?」
  「まさか」
   老人はカッカッと笑った。「そんな可愛ら 
  しいものでは御座いませんよ」
  
  
   靴音が薄暗い通路の壁に反響している。
   電灯はない。恐らく電線が引かれていない 
  のだろう。
   老人が片手に持つ、一本の蝋燭ろうそくの明かりだ 
  けが、唯一の頼りである。
   私は老人の後について歩きながら、時折り 
  蝋燭の明かりに照らされる欧州中世の鎧兜の 
  模造品に肝を冷やしていた。
   通路両側の壁際に立ち並ぶそれらは、片手 
  に具した大斧を振りかざし、今にも襲いかか 
  ってくるのではないかと思える程だった。
   そうして一体どれ程の時間歩いただろうか。
   老人がようやく足を止めて、
  「こちらでございます」と、ひとつの小部屋 
  の戸を指した。
   実際には、一分足らずの間だったかもしれ 
  ないが、異様に長い時間に感じられた。
   薄気味悪い光景から早く抜け出したいとい 
  う思いが、恐らくそう感じさせたのだろう。 
   私はドアノブを引き、中へ足を踏み入れた。
  荷物を部屋の片隅に置いて、周囲を眺めた。 
   部屋の中程に、丸い木のテーブルと椅子が 
  あった。
   奥には堅そうなベッドが横たわっており、 
  ほこりにまみれた食器棚が壁にもたれていた。
   その隣りには本棚があって、文字も分から 
  ない程に背表紙の色あせた分厚い本が所狭し 
  と並んでいた。
   窓のカーテンがバタバタと音を立てていた。
  窓ガラスの左下隅が欠けて、そこから冷たい 
  夜風が吹き込んでいた。
   ひどく不気味な部屋だった。
  「すぐに食事をお持ちしましょう。まァ大し 
  たものは御座いませんが。今しばらくお待ち 
  下され」
   老人はきびすを返し、遠ざかっていった。 
  私は部屋から顔を出し、老人の丸まった背の 
  行く先を見送った。
   数分も経った頃、再び老人は現れた。
   右手にかごを下げ、中には黒パンが数切れあ 
  った。左手にはブドウ酒のびんを持っていた。 
   老人はそれらをテーブルに置くと、食器棚 
  からグラスを二つ取り出した。
   老人と私は、向かい合いに椅子に腰掛けた。
  それから堅い黒パンをさかなに私たちは酒
  み交わした。
   老人の話では、裏口から出て道なりに行け 
  ば、人里に辿たどり着けるということだった。
   ようやく助かった、と私は心底喜んだ。
   その時は。
  「ところで、御老人。例の物騒な奴というの 
  は、いったい何者ですか」
   ふと、私は思いだして、老人にそう尋ねた。
  「ああ、あれですか」
   老人は、酒臭い息をフーッと吐き出した。 
  「漆黒の身体、背に生やした羽――。その姿 
  は何とも形容し難く――そうですな、おぞま 
  しいというのが最も近いでしょうな。奴の好 
  物は、血」
   私は思わず生唾を飲み込んだ。少し、酔い 
  めてきた。
  「と言いますと、ヴァンパイアとかドラキュ 
  ラとかいう」
  「いえ、別種でしょうな。ニンニクや十字架 
  には弱くないらしいです」
  「しかし、吸血鬼だなんて、伝承か何かなん 
  でしょう。実際に存在するとは思えないので 
  すが――?」
   私の問いに、老人は眉間に皺を寄せたまま、
  答えなかった。
  
  
   スプリングの壊れかけたベッドに横たわり 
  ながら、私は天井に描かれている幾何学模様 
  を垂直に眺めていた。
   何故だか寝付けなかった。
   窓の外は雨がまだ降り続いていたが、その 
  雨音が気になったせいだけではなかった。
   疲れ切った体に酒も入れて、それでもなお 
  眠れなかったのは、ひどく胸騒ぎがしたため 
  に他ならなかった。
   私はベッドから下りると、燭台しよくだいから一
  の蝋燭を拝借して部屋を出た。
   通路の両脇に並ぶブロンズ像の数々は、全 
  く悪趣味の一言に尽きる。本当に気味が悪い。
   確かに何かが出ても不思議ではないという 
  雰囲気はある。
   そして、私は何かが出そうな予感をひしひ 
  しと募らせていたのである。
   狭い通路を歩きながら、吹き出した冷や汗 
  が背中に伝うのを感じていた。
   息を殺して、足音を忍ばせながら、しんと 
  した通路の中を慎重に進んだ。
   やがて、私は曲がり角に突きあたった。通 
  路が左に折れていた。
   私は左側の壁に背中をつけた。冷たい石の 
  壁からひんやりとした感覚が伝わってくる。 
   先の通路の様子を窺うために、私は壁の端 
  から少しだけ顔を覗かせた。
   目の前に人影があった。不意のことに、私 
  は思わずたじろぎながらも、蝋燭を前方に突 
  き出して、その人影を照らした。
   吸血鬼――ではなく、それは老人だった。 
  老人はゆっくりと近づいてきた。
   そして、老人は私にこう告げた。
  「お気を付けなされ。奴がいます」
  「奴――?」
   気が付けば、老人は左手で首筋を押さえて 
  いた。
  「まさか――」
   続く言葉は喉に詰まって出てこない。
   老人は、私の考えを察したのだろう。重く、
  首を縦に振った。
  「大丈夫、なのですか――?」
  「ええ、何とか。幸い奴は、血を吸った相手 
  を吸血鬼にする能力は有しておりません」
  「しかし、とにかく何か護身になるものを― 
  ―」
   私はとっさに腰の辺りをまさぐって、しま 
  ったと舌打ちをした。普段携帯しているジャ 
  ックナイフは、他の荷物と一緒に部屋に置い 
  てきていた。
  「そうだ、イミテーションの大斧! あれは 
  使えませんか?」
   私が必死に思いついた案を、老人は鼻で笑 
  った。
  「そんなもの奴には当たりませんよ」
  「では、どうすれば――?」
  「安心召されい」
   老人は蚊取り線香に火を付けたのだった。 
  
                   終わり