きっと、この先には幸せがあるに違いない。
   八階建てのマンションの屋上の白い鉄柵の外側の縁に佇みながら、私はそんなことを思 
  っていた。
   それでも、私の両足は恐怖からがくがくと震えだしていた。
   後ろ手にしっかりと鉄柵を摑んでいなければ、すぐにでも転落してしまいかねない。
   馬鹿みたいだな――、と私は思った。
   飛び降りるためにここに来たはずなのに、今さら何をためらっているのだろう。
   鉄柵の内側には、綺麗に揃えた一足のローファーの学生靴があった。遺書は、屋上を吹 
  き抜ける強い風に飛ばされないように、その靴を重しにして踏ませてある。
   しかし、学生鞄を立て掛けた鉄柵の上を跨いで、紺のソックスのままで向こう側に降り 
  立った瞬間――、まるで景色が変わった。
   見下ろすマンションの裏手のひとのないコンクリートの地面は、想像していたよりも遙 
  かに冷たく無機的で、私の背筋を凍らせるには充分すぎた。
   本当にこの道は天国まで続いているのだろうか。むしろ、地獄への入口のようにさえ思 
  えてくる――。
   鉄柵を握る手がじっとりと汗が滲んでいた。
   雲ひとつない青い大空の上では、真夏の日差しがギラギラと照りつけていたが、手の平 
  が汗ばんでいるのは決してそのせいだけではなかった。
   私は目を瞑り、心の中で祈りを捧げた。
  (神様! あと一歩だけ踏み出す勇気を、どうか私にください――)
   気のせいか、本当に恐怖心が和らいだ気がした。
   あるいは目を瞑ったために、恐ろしいほどに無機的なコンクリートの地面が見えなくな 
  ったためかもしれない。
   視覚を使わなくなったことで、聴覚の方は研ぎ澄まされて、ぶうん――、と低く唸る貯 
  水槽の音が屋上の縁まで聞こえてきた。
   それから、誰かの足音――?
   私は目を開けて、鉄柵の内側を肩越しに振り向いた。
   そこに、ひとりの紳士が立っていた。
   年齢は四十代くらいだろうか。
   真夏だというのに黒い燕尾服に身を包み、しっかりと締めた襟元にはキュッと黒い蝶ネ 
  クタイを結んでいた。
   頭にはシルクハットを乗せていて、その下の髪は短い。
   一見すると西洋人のようにも見える彫りの深い精悍な顔立ちで、凛々しい眉の下では曇 
  りのない澄んだ瞳がこちらを向いていた。もっとも肌の色は黄色人種そのもので、瞳の色 
  もありふれた濃褐色である。
   鷲鼻の両脇から年齢相応の法令線が八の字を描いていており、その下の唇は引きしまっ 
  ていた。その唇の周りには髭どころか剃り跡もなく、もみあげも生えない体質なのかもし 
  れなかった。
   紳士は右手には杖を携えていたが、どうやら足を不自由しているわけではなく、嗜みで 
  あって、軽やかな足取りで黒光りする革靴を交互に前に出しながら、真っ直ぐに私の方に 
  向かって歩いてきた。
   白い鉄柵の前で立ち止まると、紳士はそこに揃えて脱いだ私の靴に一瞥をくれた後で、 
  私を見つめた。
  「お嬢さん」と紳士が言った。
   紳士の声は、深みのあるバリトンだった。
  「ここで何をしているのですか?」
  「――」
   私は黙って、紳士を見つめ返した。
   マンションの住人だろうか。今までに見かけたことはなかったが、すべての住人を知っ 
  ているわけではない。
   しかし、この紳士が普段からこんな目立つ恰好をしているのであれば、一度見かけただ 
  けでも記憶に残らないはずがないと思うのだが――。
   私の観察するような視線を訝りととったのだろう。紳士は軽く咳払いをした。
  「いえ、決して怪しい者ではございません。私は九○一号室のなかと申すものです」
   紳士はそう名乗った。
  「九○――?」
   私は眉をひそめた。先ほども述べたとおり、マンションは八階建てで、九○という部屋 
  番号は存在しない。
  「お嬢さんがおっしゃりたいことはわかります。しかし、噓は申しておりません。なぜな 
  ら、あそこが私の部屋なのですから」
   そう言って田中が示したのは、屋上に突き出た八階に下りるための塔屋だった。
   上ってきた時には気づかなかったが、その塔屋の隣りに生活感のあるブルーシートハウ 
  スがあって、どうやら、田中はそこに暮らしているらしい。
   間違いなくオーナーの許可は取っていないだろうが、オートロックのこのマンションに 
  よくも忍び込めたものである。
  「お嬢さんは女学院高校の生徒さんのようにお見受けしましたが?」
   田中が高校をずばり言い当てたのは、私が黒いリボンの清楚なセーラー服を着ていたか 
  らだろう。
   名門の女子高で、市民であればひと目でそれとわかる。
  「そうですけど――」
   私が答えると、田中は「素晴らしい」と言った。
  「お嬢さんは、たいへん優秀でいらっしゃる。女学院の生徒さんとこんなふうにお話をす 
  る機会に恵まれるとは思ってもみませんでした」
  「あの、私に何か用ですか? 今、取り込み中なんですけど――」
   私は少し苛立って言った。
   田中には、早くどこかに行ってもらいたかった。
  「お気を悪くされましたかな。申し訳ございません。本題に入りましょう。実はお嬢さん 
  に折り入ってお願いがございまして――」
  「何ですか?」
   私が尋ねると、田中は私が脱いだ靴をもう一度見たようだった。
  「靴を履いていらっしゃらないようですが、ここに揃えて脱がれている靴がお嬢さんのも 
  のでしょうか?」
  「――はい」
  「つまり、お嬢さんは自殺を考えていらっしゃる?」
  「――」
   私は答えなかったが、田中はそれを肯定と受け取ったようだった。
  「やはり、そうでしたか――」
   田中は頷いた後、予想もしないことを私に言ってきた。
  「それなら好都合です。実はこの靴をぜひ私に譲っていただきたいと思いまして――」
  「――え?」
  「実は私は、その筋ではわりと名の知れた靴の収集家でしてな。お嬢さんの靴をぜひとも 
  そのコレクションの中に加えたいと思ったのです」
  「――靴なんか集めて、いったい、どうするんですか?」
  「これは困りましたな」
   私の問いに田中は苦笑すると、ずれてもいないシルクハットを被り直した後、その恐る 
  べき用途を私に告げた。
  「強いて言えば手に取って鑑賞したり、においを嗅いだりしますな。それから――」
  「――やめてください」
   私は田中の言葉を遮った。
  「しかし、お嬢さんはこの靴をここに脱ぎ捨てていらっしゃる。そして、これから飛び降 
  りようとしていらっしゃるのだから、この靴はもはやお嬢さんには不要でしょう。所有権 
  を放棄したといっても過言ではありますまい」
   そう言い終わるが早いか、田中は私の承諾も得ないままに、その場に屈みこんで右足の 
  靴を手に取っていた。
   そして、田中は衣囊から取り出した片眼鏡を窪んだ眼窩に嵌めると、靴をためつすがめ 
  つ眺めだした。
  「これは素晴らしい」と田中が言った。「特にこの履き潰されたかかと具合などには歴
  の重みを感じますな。異性の目のない女子高では、こういう女性のずぼらな面が隠蔽され 
  ることなく前面に出てきて、一研究者としてたいへん興味深い」
  「ちょっと、なに勝手に触っているんですか!」
   私は喚きながら鉄柵を摑んだ左手を離すと、間違っても転落しないように屋上の細い縁 
  の上で慎重に向きを変えた。
   田中は靴に顔を近づけ、眼鏡越しにそれを念入りに観察している。
  「誰か! お願い、誰か来て!」
   私は必死で助けを求めたが、マンションの屋上に住人が上がってくるはずはない。この 
  場所から飛び降りることにしたのは、まさにそれが理由なのである。今はその選択が完全 
  に裏目に出てしまって、どうやら自力に頼むより他にない。
  「もう! なんなの――」
   鉄柵の上に両手を掛けた後、踵をばねにして飛び上がった私は、腹を支えにして右足か 
  ら跨いで乗り越え、内側の床に降り立った。
   しかし、間に合わなかった。
   田中は目を瞑り、鷲鼻を履き口に差し込むと、深呼吸をするように大きく息を吸い込ん 
  でしまっていた。
   カッ――、と田中が目を見開いた。
  「これは素晴らしい」
  「この変態!」
   私は田中を思いきり蹴飛ばした。
   田中の手から引ったくるようにして靴を取り返した私は、二度と奪われないようにそれ 
  を履いてしまおうとした。
   しかし、床に落とした靴に足を差し込む段になって、私は田中が鼻先を突っ込んだ靴を 
  履くという行為に抵抗を覚えてしまった。
  「もう! 履けなくなっちゃったじゃない!」
   私はまだ床の上に転がっていた田中に抗議をした。
   田中は燕尾服についた砂埃を払いながら起き上がった。
  「それなら、私にくださればいい」
  「いい加減にしてよ! 警察に訴えてやるから」
  「訴えるですって!?
   田中は驚いたような声を上げた。
  「まったく、何を言いだすかと思えば――。むしろ表彰されてもいいくらいです。あなた 
  が若い命を絶とうとしていたのを取りやめさせたのですから。違いますかな?」
  「それは――」
   私は口ごもった。
  「だいたい私が何の罪を犯したというのですか。まァ、お聞きなさい。ひと口に靴の収集 
  家といっても、三つのタイプに大別できるのでして――」
   田中は私が訊いてもいないのに、靴の収集家のなんたるかを語りだした。
  「一番目のタイプは強盗型です。女性が履いている靴を強引に奪い取るタイプの収集家で 
  すな。靴を奪うだけであれば強盗ですが、万が一、女性を転ばせて怪我でもさせてしまえ 
  ば強盗致傷。これはたいへん重い罪で、まさに唾棄だきすべき行為と言えるでしょう!」
   田中は糾弾するように言った。
  「二番目のタイプは窃盗型です。下駄箱などからこっそりと持ち帰るタイプの収集家です 
  な。強盗ほど悪質ではありませんが、これも犯罪には違いありません。靴を盗まれてしま 
  った女性がどれだけ迷惑するかをまるで考えていない点においても一緒ですな」
   田中は眉間に皺を寄せながら言った。
  「そして、三番目のタイプが私のような交渉型の収集家なんですな。話し合いの末、双方 
  の合意のもとに靴を譲り受けるのですから、これはまったく罪には問われません。違いま 
  すかな――?」
  「私はあげないって言っているの」
  「しかし、私はただで譲ってほしいとは言っていませんよ」
   田中は唇の端に微笑を浮かべた。
  「――」
   私は押し黙り、改めて田中の恰好を眺めた。
   シルクハットや燕尾服の襟の拝絹はいけん、漆塗りの杖、それに革靴はいずれも美しい艶を放っ 
  て、見るからに高級そうな品である。どれも数万――、いや、数十万はするのではないだ 
  ろうか。
   しかし、それでいて、私に蹴飛ばされたために服を砂埃で汚してしまったことを、たい 
  して気にしている素ぶりもない。
   ブルーシートハウスに寝泊りするような暮らしをしているようだが、もしかすると本当 
  はお金持ちなのだろうか。咎められもせずに屋上に暮らしていられるのは、あるいはこの 
  田中が実はこのマンションのオーナーだから――?
  「――いくらくれるの?」
   気がつくと、私は田中にそう尋ねていた。
   そして、すぐにその発言を恥じた私は顔を耳まで熱くした。きっと、ごまかしきれない 
  ほど真っ赤に染まってしまっているだろう。そう思うと余計に恥ずかしかった。
   もっとも、恥ずかしがっていたのは私だけではなかった。
  「いや、お恥ずかしい。そうは申しましたものの、実は私は無一文でして、お金は差し上 
  げられないのですよ」
   田中は苦笑した。
   私は少しだけがっかりしたものの、同時にほっとしてもいた。
  「それなら、靴はあげません。交渉決裂です」
  「まァ、そう言わずに。物々交換といきませんか?」
   田中はそう言いながら右手の杖を腕の方に滑らせた後で、左手で脱いだシルクハットの 
  中に、自由になったその右の手を差し込んだ。
   シルクハットの中から田中が取り出したのは一足の靴だった。
  「この靴と交換するというのではどうですかな?」
   田中が取り出した靴は、尖った爪先と踵だけを黒革で覆った、高いピンヒールのセパレ 
  ートパンプスだった。中底の革の色は真紅である。
   他の所持品と同様に革は黒光りしていて、いかにも高級そうな印象を受けたが、大人の 
  女性が履くような艶かしい形状フオルムと妖しい色使いをしたその靴は、私が足を入れるにはまだ 
  少し早いような気がした。
  「――すみません、やめておきます」
  「気に入りませんかな?」
  「――気に入らないというか、学校には履いて行けないので」
  「そんなことはありませんよ。まァ、ご覧なさい」
   田中はシルクハットを被り直すと、左手の指を弾いて音を立てた。
   一回、二回、三回――。
   直後、目の前で起きた出来事に、私は思わず息を呑んでいた。
   田中の右手の中でパンプスが光をこぼしながらきらきらと輝いたかと思うと、私が手に 
  摑んでいたローファーそっくりに形を変えてしまったのだ。違っているのは、そのローフ 
  ァーが新品同然に艶やかだったことくらいだろう。
  「驚きましたかな? これは魔法の靴なのです。どうでしょう? お嬢さんの靴とこの靴 
  を交換してはいただけませんかな――?」
   私は、すぐには言葉を返せなかった。
   魔法の靴――。
   本当にそんなものがこの世にあるのだろうか。きっと今のは手品で、どこかに仕掛けが 
  あるのではないか。
   とはいえ、仮にそうだったとしても新品のローファーと交換するのだから、こちらとし 
  ては得こそすれ、損をするわけではないのだが、騙されるのはやっぱり悔しかった。
   そんなことを逡巡している間にも、田中は私の関心を引こうとして何度も指を打ち鳴ら 
  していた。
   ローファーになった魔法の靴は、田中が指を三回鳴らすたびに、水玉のスニーカー、フ 
  ァーのついたブーツ、赤いゴムの上履き、赤いラインの体育館履き――、などなど目まぐ 
  るしく変化して、今は白いミュールになったところである。
   違う。手品じゃない、と私は思った。
   あのミュールは、先日、気に入って買ったのと同じものだ。
   ミュールだけではない。どうやら、魔法の靴は適当な形に変化していたわけではくて、 
  そのどれにも見覚えがあって、私が以前に持っていた、あるいは今も持っている靴に変わ 
  っていたのである。
   どんなに優れた手品師がいたとしても、それは決してできることではない。
   本物の魔法の靴――?
   私は、床に落とした右足の靴と、遺書の上に乗っていた左足の靴を拾い上げた。重しを 
  失った遺書が屋上の強い風で青い大空に舞い上げられて、白い鳥のようにはためきながら 
  どこかに飛んでいった。
   それを見送った後で、私は田中の前におずおずと立った。
   田中がまた指を三回鳴らして、魔法の靴がもとのパンプスに戻った。
  「どうやら、交換していただけそうですな」
   田中に問われて、私は「――はい」と小さな声で答えた。
  「よろしい。交渉成立です」
   田中が私にパンプスをよこした。
   私は手にしたローファーを田中に差し出した。
   ローファーを受け取った田中は、再び履き口に鷲鼻を入れてにおいを嗅いだ後で「素晴 
  らしい」と満足そうに言った。
   私は羞恥を覚えたが、あのローファーはもう田中の所有になってしまったのだから文句 
  は言えなかった。
   その代わりに、私はこの魔法の靴を手にしたのだ。
   私は、試みに指を鳴らしてみた。
   一回、二回、三回――。
   すると、魔法の靴は私の手の中で、またローファーに姿を変えた。
  「素晴らしい」と田中が言った。「試しに履いてご覧なさい。空を飛ぶことだってできま 
  すよ」
  「空を――?」
  「そうです。さァ、勇気を出して――」
   田中に促され、私は屈みこんで靴を床の上に置くと履き口に足を差し込んだ。
   右足、そして左足――。
   突然、両足を上に引っ張られ、私は空中に逆さ吊りになってしまった。
  「きゃあ!」
   空に落ちていくような感覚に囚われて、私は小さく悲鳴を上げていた。
  「素晴らしい」
  「今、見たでしょ!」
   重力で垂れ下がるセーラー服のスカートの裾を両手で押さえながら、私は田中に苦情を 
  言った。
  「いいえ、大丈夫です。汚れていませんでした」
  「変態! そんなことは訊いてないの!」
  「まァ、落ち着いてください。ほら、体の力を抜いて。そうしないと、いつまでも逆さに 
  なったままです」
   私は喚き散らしたいのを我慢して、田中の言葉に従った。
   くるり――、と体が回転して、次の瞬間、私は空中に立っていた。
  「すごい!」
   私は思わず感嘆の声をもらした。
  「気に入っていただけましたかな?」
  「はい! とっても!」
   そうやって田中と会話をしている間にも、私の体はぐんぐんと空に高く上っていき、見 
  下ろす街に林立する摩天楼は模型のように小さくなってしまった。
   高く、もっと高く――。
   魔法の靴は、私をどこまでも運んでいく。
   やがて、日本列島が俯瞰できる高さまで上った私は、北海道は本当にバターの恰好をし 
  ているんだ――、と思った。
  
  
   楽しい時間は、しかし、長くは続かなかった。
   突然、強風に襲われて、私は思わず顔をそむけた。
   その直後、強風が作り出した揚力に乗って、何十羽という鳥の群れが舞い上がってきた 
  かと思うと、ばたばたと羽音を立てながら一斉に私に襲いかかってきた。
   こくまるがらすのような鳥だった。全体は黒い羽毛に包まれていて、胸だけが白かった。
   鳥たちは私の体をくちばしで容赦なくつつき、髪の毛やセーラー服の布を引っ張った。
  「やめて! あっちに行ってよ!」
   必死で追い払おうとする私の姿を面白がってでもいるかのように、鳥たちは私の周囲に 
  群がって飛んだ。
   そして、鳥たちは私の隙を窺っては四方八方から襲いかかってくるのだ。
  「痛い! やめてよ! あっちに行ってってば!」
   怒る私を見て、鳥たちがゲラゲラと笑いだした。
   ゲラゲラ、ゲラゲラ、ゲラゲラ、ゲラゲラ、ゲラゲラ――。
   いつの間にか、鳥の頭が人間のそれに変わっていた。
   どれも、見覚えのある顔だった。
   江梨花えりか舞衣まいめぐみ――。
   和美かずみ明日香あすかれい――。
   私のクラスメイトたちの頭が、白い胸からにょっきりと生えていた。
  「やめてよ、江梨花!」と私は叫んでいた。「私が何をしたっていうの!? 嫌だ! 舞衣 
  まで、どうしてこんなことをするの!? 痛い! 痛いってば! 恵! どうして!? ひど 
  いよ! 私たちずっと友達だったのに――!!
   そうやって訴えかける私の言葉は、しかし、彼女たちの耳には届かない。ますますはやし 
  立てながら、彼女たちは執拗に私をいたぶった。
   胸の黒いリボンを抜き取られた。
   前開きのブラウスをはだけさせられて、ブラジャーがあらわになった。
   それさえも剝ぎ取られそうになって、私が両腕を抱えて守ろうとした隙に、今度はスカ 
  ートを下ろされてしまった。
   続けてショーツまで脱がされかけて、私は恥辱に染まりながら必死で抵抗した。
  「お願い! もう許して――」
   私は涙声になって懇願した。
   しかし、彼女たちに慈悲の心はなかった。どうにかして私を裸に剝きたいらしく、二人 
  がかりで私の左腕を胸の前から引き離した。
   無防備になったブラジャーを上にまくられて、カップの中から、ぽろん――、と乳房が 
  こぼれた。
   両足を押さえつけられた後、最後までショーツを守っていた右手がついに剝がされた。 
  「嫌――」
   私は、その後のことを想像して、小さく声を上げた。
   なすすべもなく私のショーツは膝まで下ろされて、下腹部がクラスメイト全員の前に晒 
  された。
  「ワァァァァァァァァァァァァ――――――ッ!」
   それまでは決して泣くまいと耐えていた心もそれで挫けてしまい、私は大声で泣き出し 
  ていた――。
   興ざめしたように、鳥たちが飛び去っていく。
   私にたかっていた最後の一羽が、左足から靴を奪って飛んでいった。
   その途端、私の体がずしりと重くなった。
   魔法の靴の一方を脱がされて、その効力が弱まったのだろう。右の靴だけでは重力に逆 
  らいきれずに、私は空からゆっくりと下降し始めた。
   いや――、これは落下ヽヽだ。
   物理で習った法則どおりに、下降するスピードが乗数的に増していく。
   私は恐ろしくなって悲鳴を上げた。
   気がつけば、日本列島がもう視界に収まりきらなくなっている。
   その二秒後には街が見えた。
   林立する摩天楼の中に、私はみるみる墜落していく。
   そして、眼下にはコンクリートの固い地面が――。
   地面が――。
   地面が!
  「!」
   視界が激しく揺れた直後、全身を激痛に見舞われた。
   意識はあった。しかし、まるで金縛りにあった時のように体が動かなかった。
  「痛い――」と私は呻き声を上げた。
   コンクリートの地面の上でうつぶせに寝そべった私の目には、地表数十センチの世界が 
  映っていた。
   見覚えのある景色は、どうやら私が住んでいる八階建てのマンションの人気のない裏手 
  のようだった。
  「痛い――。痛い――」
   誰もいない――。
   誰にも気づかれないまま、私はここで死ぬんだ。
   お母さん――。
   お父さん――。
   ごめんなさい――。
   視界が白くおぼろげになり、意識が遠のき始めていた。
   その時――、誰かの声が聞こえてきた。
  「あそこ、人が倒れてない?」
  「噓!? 飛び降り? ヤバくない?」
   少女らしい。
   聞き覚えのある声だったが、混濁し、薄れゆく意識の中ではそれが誰なのか、すぐには 
  思い出せなかった。
   駆け寄ってきた複数の足音。
   地面に倒れ込んだままの私からは、靴下を履いた足だけが見えていた。
   紺のソックス。それに、ローファーの学生靴だった。
   そして、聞こえてきた。
   ゲラゲラと。
   あの嫌な笑い声だった――。
  「これ、由美ゆみじゃん!」
  「ウける! お尿しつこ漏らしてるし!」
   江梨花と舞衣だ。
   舞衣の言葉どおり、私の周囲には感覚のなくなった下半身から意思とは関係なしに漏れ 
  出してしまったらしいぬくい水溜まりができていた。
   恥ずかしくて、涙が溢れてきた。
  「しかも、痛い、とか言っちゃって、自分で飛び降りたんだろっての!」
  「そうだ! 写メ、写メ!」
  「確かに! ていうか、私ら、超スクープじゃね?」
   和美と明日香と麗子だ。
   ハイ、チーズ――。パシャ!
   携帯電話のシャッターを切る時のおどけた音声が聞こえてきた。
   ハイ、チーズ――。パシャ!
   ハイ、チーズ――。パシャ!
   彼女たちは、いろいろな角度から私の写真を撮った。
   悔しい!
   悔しい!
   悔しい!
   体が動かない。
   心の奥底から込み上げた叫びも、もう声にはならなくなっていた。
   何もできない。
   私は、最後の最後までこんなに惨めなんだ――。
  「――救急です! はい! 住所を言います!」
   誰かが救急車を呼んでくれたようだった。
   その声は、どことなく恵に似ている気がした。
   恵だったらいい――。
   そう思いながら、私は力なく目を閉じた。
  
  
   病院のベッドの上で、私は意識を取り戻した。
   私の他に誰もいない、個室のベッドだった。
   起き上がることはできなかった。
   鎮痛剤が切れてしまったのか、全身がズキズキと痛んだ。この痛みのせいで意識がもど 
  ったのかもしれない。
   タオルケットの下の両腕は骨折しているのだろう。しっかりとギプスで固定されている 
  ようだった。多分、両足も同じことになっているに違いない。
   腰の横からは尿道カテーテルの管まで出ていて、それはベッドの横に吊るした透明のバ 
  ッグに繫がっており、そこに排泄された尿が溜まっていた。
   ひどい有様だ、と私は思った。
   でも、死ななかった――。
   あんなに高くから落ちたはずなのに、よく助かったものである。
   いや、そうではない。
   あれは、ただの夢だったんだ――。
   学校から帰宅した私は、マンションの屋上に出た。
   靴を揃えて脱いだ。
   白い鉄柵を乗り越えた。
   屋上の縁に立った。
   その後、夢の中では田中という紳士――、いや、変態に出会ったのだが、現実的な解釈 
  としては、結局、私はあそこから飛び降りたのだろう。
   最後に記憶している地面に落ちた時の映像は、人気のないマンションの裏手だったから、
  まさに私が飛び降りようとしていた場所である。
   飛び降りたけれど、死ななかった。それだけのことだ。
   八階から飛び降り自殺を図って助かる事例は、それなりに稀ではあるかもしれないけれ 
  ど、それでも、ただそれだけの話なんだ――。
   こうして奇跡的に一命を取りとめたのが、ひどくつまらないことのように思えて、私は 
  深いため息をついていた。
   死ななかった。死んでいればよかったのに――。
   しかし。
  「あれ――?」
   病室の中に思わぬ物があるのに目を留めて、私は声に出して呟いていた。
   片方だけのローファーの学生靴が、病室の出窓に置かれていた。
   右足の靴である。
   どうして、私の靴があるのだろう。
   あの靴は飛び降りる前に、マンションの屋上に揃えて脱いだはずである。それとも、記 
  憶違いで、靴を脱がずに飛び降りたのだったろうか――。
   違う。そんなことは絶対にありえない。なぜなら、脱いだ靴は遺書が強風で飛ばないよ 
  うにするための重しでもあったからだ。
   では、誰かが屋上から持ってきたのだろうか。
   いや、それも不自然だ。それなら、右足だけではなく、左足の靴も病室の中になければ 
  おかしい。
   そして何より、出窓に置かれているそのローファーの学生は、まるで新品そのもののよ 
  うに見えるのだ。
   夢じゃなかった――?
   そうだ。きっと、あれは魔法の靴だ――。
   私は急に嬉しくなった。
   不思議と、私の体の中から生きる勇気のようなものが湧き上がってきた。
   死ななかったんじゃない! と私は思った。
   私、生きているんだ!
   もっとも、空から地面に墜落したことを思えば、あの片方だけの魔法の靴では、もう空 
  は飛べないだろう。
   それでも、魔法の靴なんだ!
   私は、ギプスで固定された腕を見た。
   この腕も、いつかは治るだろうか。もしも、腕が治って動かせるようになったら、指を 
  三回鳴らしてみよう。
   いや――、やっぱり鳴らさないでおこうか。
   私に生きる勇気を与えてくれたこの魔法の靴が、その瞬間に何の変哲のない、ただのロ 
  ーファーの学生靴に変わってしまわないためにも。
  
                                       終わり