誰もいない独房に、花、一輪――。
  
  
   その男は、薄暗い坑道の壁にもたれ、膝を 
  折り曲げて地べたに座り込んでいた。
   年齢は五十を越しているように見えたが、 
  もしかしたら見かけよりも若いのかもしれな 
  い。固く閉じた目元に深い皺を寄せて、男は 
  静かな寝息を立てていた。
  「――さん。レンクスさん」
   肩を二、三度軽く動かされて、その男――、
  レンクスがうっすらと目を開けると、傍らに、
  チャドの姿があるのを見つけた。
   チャドは、レンクスよりだいぶ若く、おそ 
  らくは二十代だろう。まだ三十歳には達して 
  いないように思われた。
  「そろそろ、看守の奴が回ってくる頃ですぜ」
   チャドはそう言うと、右手に握っていた二 
  本の鶴嘴の内の片方をレンクスに差し出した。
   レンクスは、目をこすりながら欠伸をかい 
  た後、「すまん、チャド」と礼を言って、そ 
  の鶴嘴を受け取った。
   それから、レンクスはおもむろに起き上が 
  ると、チャドと肩を並べて鶴嘴を固い岩盤に 
  打ちつけ始めた。
   二人は同じ服装をしていた。
   ぼろ切れを繋いで縫った作業着は、囚人に 
  着せるものだった。
   その作業着がはち切れんばかりに、二人の 
  太い二の腕や分厚い胸板は筋骨が隆々として 
  いるわけなのだが、その一方で、そうした体 
  格にはあまりにも似つかわしくない書生のよ 
  うな青白い肌をしている。
   それは二人が、ひもすがら、こうして陽に 
  も当たらず、もぐらのような暮らしを続けて 
  いるせいであった。
   いや、二人だけではない。ここの囚人は皆、
  そうした風貌に変わっていく。
   掘削作業にとりかかって数分もしないうち 
  に、レンクスは「ふう、きついな――」と鶴 
  嘴を振り下ろす手を休め、肩を揉みほぐしな 
  がら天を仰いだ。
   視線の先には、低い坑道の天井があった。 
   天井は、いくつもの亀裂が目立ち、今にも 
  崩れ落ちそうな気配だった。事実、先日も坑 
  道内で落盤があって、二人だか、三人だかが 
  落命したばかりだった。
   天井をくねくねと蛇のようにのたくる何本 
  もの太いパイプは、地中に空気を送り込むた 
  めの設備である。このパイプがなければ、囚 
  人は皆、酸欠で息絶えてしまうことだろう。 
   黙々と掘削作業を続けていたチャドが、横 
  目でレンクスの方を見て言った。
  「レンクスさんよォ――。そんなことじゃァ、
  次の〝ゲーム〟で生き残れませんぜ」
   チャドの言葉に、レンクスは少し寂しそう 
  に笑った。
  「ああ――。分かっちゃァいるんだが、寄る 
  年波には勝てないってやつでな。すっかり四 
  十肩だ」
  「痛むんですかい?」
   チャドは訊いた。もっとも彼はまだ若かっ 
  たから、それほどの興味はないようだった。 
  「おうよ。腕が思うように上がらねえんだ。 
  無理に動かそうとでもすりゃァ、ビリッとく 
  るぜ」
  「へえ、そうなんですか――。四十肩っての 
  は、年を取ると誰でもなるもんですかい?」 
  「そうさ。いずれお前にだって、この苦労が 
  分かる日が来る。ざまァみろってんだ」
   レンクスは、ムハハと笑った。
   ちなみに、レンクスは一応、四十肩になる 
  のはどうやら運動不足かららしいと知っては 
  いたのだが、何とも体裁が悪くて、チャドに 
  はそのことを隠しておいたのだ。
   昔から怠けていたのが祟ったかな――。
   レンクスはそんなことを考えながら、痛む 
  肩をおしてまた鶴嘴で岩盤を掘り始めた。
   看守が囚人の見回りに来たのは、それから 
  ほんの少し経ってのことだった。
   巡回に来た看守は三人、揃って軍服にも似 
  た制服に身を包み、腰には一剣を佩いていた。
   看守といえば囚人を鞭打つイメージがある 
  が、ここの囚人には鶴嘴を持たせている。鞭 
  では不充足であった。
   彼らは、鋭い視線で二人の仕事ぶりをしば 
  らく眺めていた。
   しかし、忠実な様子で労役につく二人を見 
  ては、刀剣を振るう必要もなく、「もうすぐ 
  定刻だ。上がれ」とだけ言い残して去ってい 
  った。
   二人は、やれやれという風に働く手をとめ 
  た。
   砂塵にまみれた作業着の袖で額に浮かんだ 
  大粒の汗を拭った後、レンクスは「今日も疲 
  れたな――」と呟いた。
  「レンクスさんは、居眠りしていただけじゃ 
  ないんですかい?」
   チャドは、ニタニタ笑いながらそう言った。
  ちげえねえな」
   レンクスも笑って、そう答えた。
   それから、「しゃァねえ、ネコぐれえ運ん 
  でやるとするか」と言うと、土砂を積んだ猫 
  車の柄に手をかけ、坑道の中を押して歩き始 
  めた。
  「鶴嘴、持ちますぜ」
   チャドの言葉に従い、レンクスは「おっ、 
  すまん」と鶴嘴を手渡した。
   坑道を歩きながら、チャドは腰に吊した巾 
  着にガサゴソと手を突っ込み、その日掘り出 
  した鉱物を摑んだ。
   透明の多面体。水晶である。
   チャドは、巾着から取り出したその水晶を、
  坑道の壁に等間隔で点々と並ぶ蠟燭ろうそくの灯りに 
  透かしてみた。
   黄色く色が着いて見えるのは、光の加減で 
  灯りが透けているのではなく、水晶自体が元 
  々その色をしているためである。
   黄水晶とかシトリンとか呼ばれている石で、
  本来は無色透明である水晶に不純物が交じっ 
  て発色している。ここでは黄水晶で通すこと 
  にしよう。
   チャドは、チッと舌打ちをした。
  「こんな高価なもんに囲まれて暮らしてるっ 
  てのに、ちっとも嬉かァねえや――」
   黄水晶をくすねようと思えば、いつだって 
  できる。看守の目もそこまでは行き届かない。
   しかし、そうする囚人は一人もなかった。 
   彼らは、多分、死ぬまでこの監獄から抜け 
  出せないのだから。
   掘り出した黄水晶をくすねてみたところで、
  いくらなんでも冥府にまで持っていくわけに 
  はいくまい――。
  
  
   坑道の出入り口は、監獄の東庭に直結して 
  いる。
   ここ、ドルドーラ監獄は、黄水晶鉱山の麓 
  に設けられているのだ。
   監獄の東庭は、縦長の敷地である。
   背面は鉱山の岩肌、左手には壁、正面は多 
  少遠いが同じく壁、そして、右手にもやはり 
  壁があるが、この壁は庭側に湾曲している。 
   背面の山はもちろん、三方の壁にしても、 
  それらはあくまでも高く、とても人間がよじ 
  登れる造りではない。
   それでは、庭の出口はどこにあるのかとい 
  えば、その湾曲した右の壁のもっともせり出 
  した位置に連結する形で、二号棟と呼ばれる 
  直方体の建物がうずくまっており、屋内に出入り 
  するための扉はその二号棟に設けてある。
   二号棟には、看守の詰め所や囚人を閉じ込 
  めておく監房、手洗い場、食堂といった施設 
  がある。疫病を予防するために、なかなか広 
  々とした浴場もあり、そこでは入浴のほか衣 
  類の洗濯なども囚人各々の手で行われていた。
  二号棟の向こう側の脇には倉庫があり、囚人 
  たちが使った鶴嘴は、各自でそこへ返すのが 
  常である。
   二号棟が存在する以上、一号棟というのも 
  やはりあるのであって、それは監獄の正面に 
  位置して外壁と連結して、門の役割を果たし 
  ている。一号棟の施設としては、看守の詰め 
  所はこちらにもあり、後は監獄長室、面会者 
  の受付、および待合室などが設けてある。面 
  会室もこちらの棟の方にあって、囚人が一号 
  棟を利用する機会は、その時くらいしかなか 
  った。
   ちなみに、三号棟というのも存在する。三 
  号棟は監獄の西側にあり、二号棟と対称の造 
  りになっている。施設は二号棟と全く同じで 
  ある。従って、三号棟にもやはり囚人がいて、
  今頃、同じように苦役を終えたところだろう。
   監獄の三つの棟の位置関係をさらうには、 
  まず横長の長方形を想像してもらいたい。縦 
  横の比は一対二程度とする。
   上辺が北で鉱山の岩肌。下辺と左右の辺は、
  監獄の外壁に当たる。
   一号棟は、下辺の中点に位置する。
   上辺の、一号棟と対称の点には建物はない 
  のだが、その二点を結ぶ直線を直径とする円 
  を引く。すると、横長の長方形の中に、都合、
  三つの空間ができると思う。
   その内、右辺側の空間が東庭で、左辺側の 
  空間が西庭にあたる。
   二号棟と三号棟は、それぞれの庭にせり出 
  した半円の頂点に位置する。
   では、円の内側の空間はどうなっているの 
  か。中庭なのか。
   それは、少し後に触れることにしたい。
   よって、外に通じているのは一号棟のみと 
  いうことになるが、仮に脱獄を試みようとし 
  た場合、命の危険を冒してそこに押し入り、 
  どうにか門を抜け出したところで、実は監獄 
  があるのは孤島である。
   監獄島かんごくじま。それが島に付けられた名前だ。
   地形学的にはカルデラと呼ばれる土地構造 
  にあたり、鉱山を中心に据える盆地の周囲を 
  ぐるりと高い外輪山が巡り、そこに雨水が溜 
  まって湖を作っている。殺伐とした監獄の有 
  様を隠して、それはやけに青く澄んだ水を湛 
  え、まるで風のない時などには、湖面に美し 
  く裾野を広げて逆さの鉱山を映す。
   湖の向こう岸、外輪山の麓には街が見えて 
  いるが、それは蜃気楼のように果てしなく遠 
  く、到底、泳ぎきれる距離ではない。
   桟橋に船はない。自然の檻である。
   これまでに脱獄に成功した者は一人もいな 
  いと聞く。
   もっとも、人間の適応力のなせるわざか、い 
  ざ慣れてしまえば監獄の暮らしも自由こそな 
  いが、それほど悪くはない。敢えて脱獄を企 
  てる者自体が稀である。
   さて、レンクスとチャドは二号棟の入り口 
  をくぐった。中には、彼らより先に戻ってい 
  た囚人たち数十名が、縦隊を組んで整列して 
  いた。
   二人は隊列に加わる前に、二号棟に入って 
  すぐのところにある看守の詰め所で、掘り出 
  したばかりの黄水晶を煙草タバコに換えてもらった。
  監獄の中では、それが唯一の黄水晶の存在価 
  値であった。
   看守から受け取った煙草はたった三本。
   原石の大きさにもよるが、基本的には黄水 
  晶と煙草、一対一の歩合である。
   相場の数百倍で、ぼったくりもいいところ 
  だが、その差額がそのまま街の収益になって、
  対岸に暮らす人々の暮らしを潤している。
   代わりに囚人たちが得るのは、一時の快楽 
  である。
   もっとも、煙草をやらないチャドは、苦役 
  の報酬として得た貴重な三本の煙草をそっく 
  りそのままレンクスに渡してしまった。
   レンクスは「では、失敬」と言ってそれを 
  受け取り、早速、作業着の胸ポケットのボタ 
  ンを外して、そこからマッチ箱を取り出した。
   そして、右手で二、三度カタカタと振った 
  みた後で、ケースを押しだしてマッチ棒を一 
  本つまみ取り、くわえ煙草に慣れた手つきで火 
  を点けた。
   マッチ棒の火を吹き消すと、レンクスは燃 
  えかすの捨て場に困った挙げ句、結局はその 
  辺にポイと投げてしまった。
   それを見ていた引率の看守に睨まれて、レ 
  ンクスは慌ててそれを拾うとチャドに押し付 
  けた。チャドは顔をしかめたが、レンクスに 
  は逆らえなくて、おとなしく自分の作業着の 
  ポケットにそれを仕舞った
   レンクスは、旨そうに煙草をくゆらせなが 
  ら、「ふぅ、生き返るねえ」と言って満足そ 
  うな笑顔を浮かべた。
   それから、「たまにはお前もやるか?」と 
  吸いかけの煙草をチャドの方に突き出した。 
   チャドは少し身をのけぞらせて、それを拒 
  んだ。
  「いいスよ。そんなもん、どこが旨いんだか 
  ――」
   レンクスは「お前も青いな。この味が分か 
  るようになって初めて、男は一人前だぜ」な 
  どとわけの分からないことを言い、ヤニで黄 
  ばんだ歯を見せてニカッと笑った。
   やがて、囚人の数が揃い、隊列は規律的に 
  一、二、一、二――、と歩き始めた。
   監房の前まで来て、囚人の行進は止まった。
   先頭に立って引率してきた看守が、くるり 
  きびすを返した。
   彼はここの監獄長だった。
   監獄長が右手を高く挙げて合図を送ると、 
  隊列の脇を固めていた看守たちが動いた。牢 
  の扉を開け、囚人を一人一人押し込むと、錠 
  前に固く鍵をかけた。
   監獄長は、錠前のかかり具合を機械的に確 
  認しながら、他の看守たちを引き連れ、足音 
  高く去っていった。
   レンクスは独房の冷たい床の上に、足を組 
  んでゴロリと寝転がった。
  「やっぱり一人部屋はいいねえ」と呟いてか 
  ら、いい加減短くなった煙草を壁に押し付け 
  て火を消した。
   吸い殻をその辺に投げ捨てると、レンクス 
  は退屈になって、向かいの独房に同じような 
  格好で寝転んでいたチャドに「おい」と声を 
  かけた。
  「何ですか?」 
   チャドは迷惑そうに返事をした。
  「何かおもしれえことねえか?」
  「ないスよ――。こんなとこじゃァ、何も」 
  「そうか――」とレンクスは深く溜め息をつ 
  いた。
   それから、他にすることもなくて二本目の 
  煙草に火を点けた。
   煙を吐き出す時に頬を人差し指でトントン 
  と叩いて、レンクスは器用に煙の輪っかを作 
  ってみせた。
   チャドが「上手いもんですねえ」と感心し 
  ている。
  「そうだろう」
   レンクスは得意げに笑った。
   しかし、そんなことができたところで、別 
  にどうということもないのである。
  
  
   レンクスが三本目の煙草をふかし終える頃 
  になって、彼の独房に看守がやってきた。
   何事だろうと訝りながら、レンクスは硬い 
  床の上に横たえていた身体を起こした。
   看守が錠前を外しながら、「お前に面会が 
  来ている」とレンクスに告げた。
  「面会――?」
   まるで心当たりのないレンクスは、眉をひ 
  そめた。
   レンクスは収監されてもう十年になるが、 
  面会などは一度もなかった。
   向かいの独房から、チャドも興味津々とい 
  う目でレンクスを見つめている。
   レンクスは戸惑いながら、鍵を外された独 
  房から出た。
   看守に後ろを見張られながら、レンクスは 
  トボトボと歩いた。
   二号棟から廊下伝いに一号棟へ行き、面会 
  室へと通された。
   面会室は、厚い壁で部屋を二分されており、
  片側に囚人、もう片側に面会者が入る。その 
  壁には鉄格子の窓があって、そこからお互い 
  の顔が望めるようになっていた。
   レンクスが面会室に入った時、窓の向こう 
  にはすでに面会者の顔があった。
   十七、八歳くらいの、若い娘だった。
   対岸の街の住民であろうか。薄汚れた作業 
  着を着たレンクスとは違って、年頃の娘だけ 
  あって小綺麗にしていて、白いワンピースの 
  上に、腕を日焼けしないようするためか、淡 
  い水色のスカーフを肩から掛けていた。
   目鼻立ちも整っていて、乳白色の頬は化粧 
  などをせずとも張りがあり、栗色の髪は艶や 
  かで流れるように華奢な肩の向こう側に滑り 
  降りていた。
   美しい娘だった。
   看守も思わず、あまりに釣り合いの取れな 
  い二人を何度か交互に見つめ直した後、自分 
  の仕事を思い出して、面会時間を告げると部 
  屋を出ていった。
   面会室の中は、レンクスとその娘の二人だ 
  けになった。
   レンクスは、軋む丸椅子に腰を下ろした。 
   格子窓の隙間越しに、娘と目が合った。
   娘は、ひどく緊張した様子で、しきりによ 
  けているはずの髪を気にしながら、軽く 
  顎を引くようなかたちで会釈をした。
   レンクスは笑わない。不審そうに、娘を眺 
  めただけだった。
   誰だ――?
   知らない娘である。
   レンクスの不審を見て取り、娘は「あの、 
  突然お訪ねしてすみません」と謝った。
  うですよね。覚えていませんよね――」
   娘の口ぶりからすると、どうやら向こうは 
  レンクスのことを知っている風である。
  「ああ、悪いんだが記憶にない。誰かと勘違 
  いしているんじゃないか? あんたみたいな 
  別嬪さん、一度会ったら、忘れちまうわけが 
  ――」
   そう言いかけて、レンクスは当然のことに 
  気付いた。
   先に述べた通り、レンクスが収監されてか 
  ら、もう十年経つ。
   レンクスが娘に会っていたとすれば、それ 
  以前であって、すると、彼女はまだ十歳にも 
  満たない計算になり、当然、外見も今とは大 
  きく異なっていたはずだ。
  「いや――」とレンクスが言った。「待てよ。
  もしかすると――」
   思い当たる節があったのである。
   そういった目で娘をまじまじと見つめると、
  なるほど、確かに面影が感じられるのだ。
  「イングリットの娘さん、か――?」
  「はい――!」
   娘の頬が、少しだけ上気して薔薇色に染ま 
  った。「あの、私、リリと申します」
   リリと名乗った娘は、レンクスに向けて丁 
  寧にお辞儀をした。
  「そうか。それで俺を知っていたのか――」 
   レンクスは、二、三度、重く頷いた。
   イングリットというのは、レンクスが収監 
  される原因を作った女であった。
   十年前、レンクスはイングリットの夫を殺 
  していた。
   もっとも、それにしては、リリの態度は父 
  親の仇を前にしたものとしては、いささか不 
  自然ではあるが――。
  「親父さんのこと――、申し訳ないことをし 
  たと思っている」
   それでも、レンクスが弁解をせずに謝罪を 
  すると、リリはやはり首を横に振った。
  「私、知っています。全て、母から聞きまし 
  た」
   リリはそう言った後、「先月、母が病気で 
  亡くなる前に――」と付け足した。
   レンクスは、大きく目を見開いていた。
  「イングリットが――、死んだ――?」
  「はい」
   リリは目を伏せた。「父を奪ったあなたの 
  ことを、私はずっと恨んで生きてきました。 
  父はもういないのに、あなたは生き続けてい 
  る。どんな暮らしをしているのかは、今日ま 
  で知りませんでしたが、生きているというだ 
  けでも許せなかった。でも、違ったのですね。
  だって、十年前に父を殺したのは、母だった 
  のですから――」
  「声が大きい」とレンクスはリリを咎めた。 
   面会室の外では、看守が控えている。
  「やはり、本当なのですね――?」
   リリが確認するようにレンクスに尋ねた。 
   レンクスは肯定も否定もせず、押し黙った。
  「無実のあなたが、十年もどうしてこんな所 
  で――」
  「俺が殺したんだよ」
  「母を、愛していたのですか――?」
  「――」
  「でも、母はひどい人ですよ。あなたに愛さ 
  れる価値なんて、これっぽっちもない。あな 
  たをこんな所に押し込めておいて、自分は不 
  自由なく生きて、一度だって、面会にも来て 
  いないのでしょう――?」
  「自分の母親をそんな風に言っちゃァいかん」
  「だって、そうでしょう――!?とリリが少 
  し口調を強くした
  「じゃァ――」とレンクスは言葉を変えた。 
  「俺が愛した人を、そんな風に悪く言わんで 
  くれ――」
  「はい――」
   リリは、力なく頷いた。
  「それになァ、自分の夫を殺した男のところ 
  に、ちょくちょく会いに来ていたら、誰だっ 
  て変に思うじゃないか。そうだろう――?」 
  「ええ――、でも、それではあなたが――」 
   言葉を詰まらせて、リリは口元に手を当て 
  た。
  「あんたはいい娘さんだね」とレンクスは笑 
  った。「イングリットの娘さんだ。そうだろ 
  う。イングリットもそうだったさ。今わの際 
  まで俺を気にしていてくれたんだろう? そ 
  れが答えじゃァないか――?」
  「ええ――」
   リリは頷いたが、それでも、下唇を嚙んで 
  結んでいた。
  「さァ、そろそろ時間になる。帰ってくれ。 
  それで、もう来なくていい」
  「いえ。また来ます」とリリは言った。
  「あんたが責任を感じて、こんな所まで年寄 
  りの慰問に来る必要はないんだ。若い人同士、
  楽しくやってくれるのが、俺としては一番、 
  嬉しい。それに、実際、あんなに何一つ責任 
  はないんだ」
   レンクスはどうにか説得を試みたが、リリ 
  「必ず来ます」と言って、頑としてそれだ 
  けは譲らなかった。
  
  
   それから、リリは頻繁にレンクスの元に訪 
  れるてくるようになった。
   監獄島との連絡は、時折り街から出る船が 
  行っている。
   船は、リリのような面会者を乗せて監獄島 
  の桟橋に付けて、面会時間のわずかな間だけ 
  停泊する。
   脱獄抑止のために、監獄島の側に船がある 
  時間は短い。
   日にちを定めていないのも、同じ狙いであ 
  る。
  「今日は、お花を持ってきました」
   リリが窓ガラス越しに見せた鉢植えは、ル 
  ピナスであった。
   白い鉢の上で、藍色の花が円錐状に咲き誇 
  っていた。
  「花かァ――」とレンクスは苦笑いを浮かべ 
  た。
  「あの、もしかして、花はお好きではありま 
  せんでしたか?」
   リリは困ったように形のよい眉をひそめた。
  「いや、別に嫌いじゃァないが。でも、ここ 
  じゃァ、すぐ枯れちまうからなァ」
  「でも、枯れてしまったら、また持ってこら 
  れますから」
  「ああ――。いや、だがな。俺ァ、こういう、
  わさっとした花はどうも好きじゃァないんだ 
  よな。こう、ぽつん――、と一輪だけ咲いて 
  いる感じの方がいい」
   せっかく持ってきた鉢植えをけなされて、 
  リリは少しだけ膨れっ面になった。
  「でも、私はルピナスは好きです。何だか、 
  いっぱい咲いている感じが。母が好きだった 
  影響もあると思いますけど」
  「そうかァ? 例えば、こうやって円錐の形 
  をしているのもな――」
   レンクスは、ルピナスの形にまで文句を付 
  け始めた。「俺の独房の窓からは湖に鉱山が 
  映るのが見えるんだが、あれは対岸からも見 
  えるのか?」
  「ええ。街からも逆さの山が見えますよ」
  「そうだろう? だが、こっちから見ると逆 
  さではないのさ」
  「あ――。そうですよね。何だか、不思議な 
  感じですけど――」
  「不思議というか、そのままさ。こっちは山 
  の底辺のまだ下で、なのに、そっちは頂上よ 
  り上にあるんだなァって、そんなことを考え 
  て、俺たちはいつだって拗ねているのさ。だ 
  から、円錐っていう形はよくないんだ」
  「よく分かりませんけど――」とリリは唸っ 
  た。「でも、ルピナスがお嫌いだというのは 
  よーく分かりました。次からは違うお花にし 
  ます」
  「いや、つまり、もう持ってこなくていいっ 
  て言っているんだが――」
  「いいえ、また持ってきます」
   リリは、きっぱりと言い切った。
  
  
  「お花屋さんにでもなるつもりですかい?」 
   レンクスの独房を眺めながら、チャドが冷 
  やかした。
  「知るかよ」とレンクスはそっぽを向いた。 
   彼の手狭な独房は、色とりどりの鉢植えで 
  すっかり埋め尽くされて、少し前までなら煙 
  草のにおいしかしなかったはずだが、今では 
  かぐわしい香りさえ放っている。
   レンクスは、鼻の辺りがむず痒くなって、 
  一つ、大きなくしゃみをした。
  「畜生め――。すっかり花粉症だ」
  「でも、その割りには枯らさないようにちゃ 
  んと世話をしているじゃァないスか」
  「まァな。花もこんな暗がりじゃァ、あんま 
  り元気がないけどな」
  「そうやって、ちゃんと世話すれば、来年も 
  また花開くんですか?」
  「ん? いや、これとかは皆、一年草だから 
  な。その内、種を残して枯れちまうんだ。翌 
  年も咲かせたければ、またその種から育てる 
  のさ」
  「へえ――」
  「もっとも、来年までこっちが生きていられ 
  るか分からんがな」
  「そうスね――。今年も、だいぶ人が増えて 
  きて、そろそろ独房が足りなくなってきまし 
  たからね――」
   監獄に収監されているのは、皆、死刑囚で 
  ある。
   もっとも、労働力にもなっているので、そ 
  う易々と命を奪われることはないが、それで 
  も独房が埋まってくると、囚人の数を減らさ 
  なければならない。
   ドルドーラ監獄では、実利とショーを兼ね 
  た、風変わりな処刑方法を採っていた。
  〝ゲーム〟――。そろそろかもしれないス」
   それが、チャドの言った〝ゲーム〟である。
   囚人同士に剣を持たせて戦わせ、勝ち残れ 
  ばよし、敗れてたおれれば、それで死刑は執行 
  されたことになる。
   そして、この〝ゲーム〟が行われる場所と 
  いうのが、先に建物の位置関係を説明した際 
  に後で触れるとした、円の内側の空間なので 
  ある。円構造は闘技場のそれである。
   闘技場の壁、すなわち円周の部分は観客席 
  にもなっていて、ショーを兼ねているという 
  のは、開催時にはそこに対岸の街から集客を 
  行うためである。
   見せしめの意味合いもあり、より多くの者 
  に見せるために観戦自体は無料である。
   もっとも、公営の賭博も行われていて、観 
  客は試合ごとに勝ち負けを予想して金を賭け 
  ることもできる。五分のテラ銭を取るので、 
  一応、街の収入源にはなっている。
   しかし、不定期に開催される〝ゲーム〟に 
  おいて、普段、生活を共にしている囚人同士 
  が戦うとなると、闇討ちをくわだてる、あるいは 
  それを恐れすぎて、本来の労役に支障が出る 
  ような事態も想定されるが、そこはちゃんと 
  考えられている。
   先に、レンクスたちのいる二号棟の他に三 
  号棟があると述べた。それがその答えなので 
  あって、二号棟の囚人と三号棟の囚人とが殺 
  し合うのである。だから、それぞれの棟の囚 
  人同士の結束が崩れることはない。
   〝ゲーム〟は、ほぼ毎年開催されているの 
  だが、全員が参加するわけではない。
   もっとも、任意参加のような、手ぬるいお 
  遊戯などでは一切なく、もちろん強制参加で 
  はあるが、参加者として選出されるのはおよ 
  そ半数である。
   半数同士が、それぞれ一対一でぶつかり合 
  ってその半数になる。従って、毎年、囚人の 
  四分の一ほどが入れ替わる公算である。
   これまでにレンクスは四回ほど参加してい 
  るが、どうにか生き延びている。
   ちなみに、チャドは収監三年目なので、ま 
  だ一回である。
   昨年参加しているチャドはともかくとして、
  レンクスは今年は駆り出される可能性が高い。
  「弱ったなァ――」とレンクスは嘆いた。
   もっとも、四回も〝ゲーム〟に参加して生 
  き残っている強者はレンクスの他にはいない 
  が、それでもレンクスは今度ばかりは、まる 
  で自信がなかった。
   四十肩が原因であった。
   これでは剣を思うように振るうことができ 
  ない。
   もっとも、一月ほど前までなら、投げやり 
  になっていたところだが、ここ最近になって、
  どうにもレンクスを生に執着させる原因がで 
  きてしまった。
   リリである。
  「いつ死んだって、よかったんだけどなァ― 
  ―」
   もっとも、レンクス自身は今だってそう思 
  っている。
   ただ、もしも自分が死んでしまったら、リ 
  リが悲しむような気がするのだ。
  「思い上がりかなァ――」
  「何がですかい?」
   チャドが瞬いた。
  「ん――? いや、こっちの話さ」
   レンクスは苦笑した後、もう一度、派手な 
  くしゃみをした。
  
  
   何の前触れもなく、食堂に〝ゲーム〟の開 
  催を告知する紙が貼り出された。
   チャドは漏れたが、レンクスは案の定選ば 
  れていた。
   朝食の前に貼り出されていたので、必然的 
  に食事中の話題は、どの卓ももっぱら〝ゲー 
  ム〟の話題になっていた。
  「肩、まだ治らないんスか?」
  「ああ――。こりゃァ、ちょっと無理かもし 
  れん」
  「今から弱気じゃァ、勝てるもんもかてねえ 
  スよ」
   チャドは顔をしかめた後、「そういや、相 
  手どんな奴なんスか? 知っている奴スか?」
  とレンクスに尋ねた。
  「さァな――。殺した奴なら全員覚えている 
  が、他の奴まではなァ。それに、去年入った 
  初顔かもしれん」
  「そうスか――。でも、レンクスさんなら、 
  肩さえ何とかなれば絶対負けませんよ。一昨 
  年、観戦した時なんか鬼神のようでしたぜ」 
   闘技場の観戦席は、囚人用にも設けられて 
  いる。
   チャドが見たというのは、そこからの光景 
  である。
   持ち合わせのない彼らは賭博に参加するこ 
  とはできないが、賑わいにはなるし、特に収 
  監一年目の者たちに〝ゲーム〟の雰囲気を肌 
  で覚えさせるためにも、参加しない者は強制 
  で観戦させられる。
  「まァ、ちったァ心得があったからな」
   レンクスは、おだてられて鼻をこすった。 
  「俺なんか、昨年、腰が引けてましたよ。前 
  夜なんか、ワーワー泣いちまって。もう、み 
  っともねえったらありゃァしねえ」
  「それが普通さ。敵さんだってそうさ」
  「でも、レンクスさんが観客席から『帰って 
  こい!』って叫んでるのが聞こえきたス。そ 
  れで、奮い立たったというか――」
  「何度目だァ? その話――」
   レンクスが指摘するとチャドは小っ恥ずか 
  しそうに笑ったが、すぐに真顔になった。
  「だから、俺、レンクスさんにも帰ってきて 
  ほしいスよ」
  「ああ、できればそうしたいが。だが、肩が 
  な――」
  「なんなら、風呂場で俺が揉んでやりましょ 
  うか?」
  「よせよ。気持ち悪い。俺ァ、お前の親父さ 
  んじゃァねえぞ」
   レンクスは苦笑した。
   それから、彼は少しばかり愚かなことを空 
  想した。
   もしも、リリが肩を揉んでくれたら――。 
   そんな馬鹿な空想である。
   でも、そうしたら、どんな相手だって勝て 
  そうな気がしていた。
   もっとも、そんな機会は来るはずもないの 
  だが。
  
  
  〝ゲーム〟――?」
   リリは瞬いて、レンクスが言った単語を繰 
  り返した。
   対岸の街に暮らしながら、リリはどうやら 
  ドルドーラ監獄で催される行事を知らなかっ 
  たらしい。
   もっとも、〝ゲーム〟に興じる者の多くは 
  男である。それも中年が多い。
   若い娘であるリリが知らなかったとしても、
  それほど不思議ではない。
   あるいは、イングリットが監獄に関する情 
  報を、できるだけ彼女の耳に入れないように 
  していたのかもしれない。
  「ああ。知らなかったか――」
  「ええ初めて聞ましたそれでその
  ーム〟に参加して、レンクスさんは何をなさ 
  るんですか?」
  「ん――? まァ、剣闘みたいなものだ」
  「へえ――!」
   リリは、感心したような溜め息をついた。 
  「なんだか、かっこいいですね」
  「そうか――?」
   かっこいい、と言われて、レンクスは少し 
  その気になったがかしすぐにリリが
  ーム〟について、よく理解していないのだと 
  思い直した。
   おそらくは〝ゲーム〟という語感から、木 
  剣でぺちぺちと打ち合うような、そんな競技 
  を想像しているに違いない。
  「あのな、つまり――」
   レンクスは、気が進まなかったが説明を始 
  めた。「ドルドーラ監獄には、この街だけか 
  らじゃなく、色んな所からその、囚人が集め 
  られてくるんだな」
  「ええ。それが――?」
  「しかし、そうすると、段々と部屋数が足り 
  なくなってくる。この監獄が収監できるのは、
  せいぜい百名くらいだからな」
  「ええ」
  「すると、数を調整しなければならない」
  「ええ――」
   リリは頷いたが、少しだけ顔を強張らせて 
  いた。
  「それが〝ゲーム〟なんだが――、俺の言っ 
  ている意味が分かるか?」
  「――」
   リリが黙って頷かなかったので、レンクス 
  ははっきりと言い直した。
  「つまり、囚人同士で――、その、殺し合い 
  をするんだ」
   リリが、俯いた。
  「俺は、今までに〝ゲーム〟に四回参加して 
  いて――、だから、これまでに四人殺してい 
  ることになる。すると、俺はやっぱり、あん 
  たが最初に毛嫌いしていたのと同じ種類の人 
  間で――。つまり、俺ァ――」
   レンクスは一度言葉を切った後、言った。 
  「人殺しなんだ――」
  「ごめんなさい――」
   口元覆った後、リリが椅子から立ち、レン 
  クスに背を向けた。
   それまで楽しそうに話をしていたのが、ま 
  るで嘘のように、リリは肩を震わせて、もう 
  一度、「ごめんなさい――」と謝罪した後、 
  そのまま、面会室を小走りで出て行った。
   レンクスは、それを呆然と見送った後、自 
  嘲気味に笑ってみた。
   リリは、レンクスが彼女の父親を殺した罪 
  で収監されていて、それが無実である以上、 
  彼が人を殺したことがないと思っていたのだ 
  ろう。
   レンクスからも、敢えて言い出さなかった。
   それは、あるいは、卑怯だったかもしれな 
  かった。
   いつも帰り際にリリが言っていた、「また 
  来ますね」という言葉が、その日は聞くこと 
  ができなくて、実際、彼女は〝ゲーム〟開催 
  の日まで、それから監獄を訪れなかった。
  
  
   雲一つない快晴の夏の空が、あまりにも高 
  く感じられた。
   ぐるりと周囲を巡る、円形の壁の向こうは 
  観客で埋め尽くされていた。
   空席は、まばらである。
   もっとも、一対一の試合しか行わない闘技 
  場である。それほどの広さは必要ない。
   収容人数は千人ほどだが、人口のそれほど 
  多くもない対岸の街から人を集客して、それ 
  だけ入るのだから盛況ではある。
   レンクスが二号棟のゲートから闘技場に足 
  を踏み出すと、背後の扉が固く閉ざされた。 
   それで、逃げ場所はなくなった。
   もっとも、五回目ともなれば慣れたもので 
  ある。
   ゲートのすぐ脇には、囚人用の観客席が用 
  意されている。
   そこには、もちろんチャドの顔もあった。 
  「頑張ってくだせえ!」
   チャドがレンクスに向けて声を張り上げた。
   この距離でも怒鳴らないと、歓声にかき消 
  されてしまう。
   レンクスは右腕を曲げて力瘤を見せた後、 
  ニカッと笑った。
   よく晴れたせいか、今日は普段と比べて肩 
  の痛みがだいぶ内端であった。
   あるいは、気合が入っているせいかもしれ 
  ない。
   反対側の三号棟のゲートを見れば、ちょう 
  ど対戦相手が出てくるところであった。兜を 
  着けているので顔は分からない。
   装備に優劣はなくて、レンクスもやはり兜 
  を被り、左の腰には剣を佩き、左手には円盾 
  を嵌めている。
   もっとも、武装と呼べるものはそれだけで、
  上半身は裸で、下半身も腰巻で覆っているだ 
  けである。
   遠目に相手の姿を確認すると、レンクスは 
  腰に佩いた一剣をすらりと抜いた。
   試合前の礼などはない。
   もう、戦いは始まっているのである。
   お互いに様子を窺いながら徐々に距離を詰 
  めていく。
   試みに剣を伸ばせば切っ先が触れ合う距離 
  まで近付くと、歓声もより大きくなった。
   レンクスは腰を落として身構え、牽制する 
  ように剣を突き出した。
   相手も、剣を合わせてくる。
   剣捌きを注意深く見て、レンクスは相手の 
  力量を測っていた。
   相手は――、それほどの腕ではない。
   おそらくは剣を習ったことがないのだろう。
  もっとも、まるで相手にならないほどの腕で 
  もないが、我流で、レンクスの突き出した剣 
  を受け流す角度で剣を出せていない。
   勝てる――!
   レンクスは、タイミングを計って一歩足を 
  踏み込み、まず心臓を一突きするかと見せか 
  けておいて、相手の剣を強く打ち弾き飛ばす 
  ことに成功した。
   剣は、互いに一本。
   レンクスの勝利を誰もが確信していた。
   だが、その一突きができなかった。
   あれほど調子のよかった右肩に、突然、ズ 
  キン、と鈍い痛みが走って、レンクスは肩に 
  手を当てて思わずその場に蹲っていた。
   剣が上がらなくなっていた。
   命拾いした相手は、その隙にどうにか剣を 
  拾い直した。
   高い歓声が上がった
   怒号のような声を上げているのは、レンク 
  スに賭けている客だろう。
   一方で、激励に近い声援は、相手に賭けて 
  いる客に違いない。敗色濃厚だったのが一転 
  して、勝機さえ見え始めている。
  「レンクスさァァァァァん――!」
   突然、二号棟ゲートから、チャドの声が聞 
  こえてきた。
   喉が張り裂けんばかりのがなり声は、闘技 
  場の中央までよく届いていた。
  「帰ってきてくだせえええええ――!」
   レンクスは、再び剣の柄を握る力を強くし 
  た。
   生きて、帰るんだ――!
   歯を食いしばって、レンクスはぐいと首を 
  もたげた。
   剣を握り直して、レンクスが再び立ち上が 
  った。
   相手は、少しだけたじろいだ様子であった。
   純粋に剣の腕だけならば、レンクスの方が 
  一枚も二枚も上手なのである。それは、剣を 
  交えた当人が一番よく分かっていた。
   もっとも、レンクスだって本調子ではない。
   牽制のし合いになって、戦いが硬直した。 
   そうした二人をけしかけるように歓声が
  段と大きくなった。
   レンクスは思わず、一瞬だけ観客席に視線 
  を移した。
   その時。
   レンクスは、そこに思いもよらない人影を 
  見つけた。
   リリであった。
   真正面、三号棟側の一席。
   リリは真夏の強い日差しを避けるようにし 
  て、栗色の髪の上に羽根のついた白い帽子を 
  被り、ちょこんと腰を下ろしていた。
   リリが――、応援に来ている!
   レンクスは、全身に力が漲るのを感じた。 
   もう負ける気はしなかった。
   肩の痛みなどすっかり忘れて、レンクスは 
  力強い突きを出すようになった。
   相手は防戦一方になって、一歩、二歩――、
  と闘技場の円の中心から後退していく。
   やがて、レンクスが放った一撃が、相手の 
  剣を強く打ち付けた。
   相手も、どうにか剣から手を離さんとして 
  耐えたが勢いに負けて、それゆえ、剣こそ弾 
  かれなかったが、自分が尻餅をつかされてい 
  た。
   勝負あった。
   相手を三号棟側に追い詰めたゆえに、リリ 
  の姿はすぐ近くに見えているはずで、勝利を 
  確信したレンクスは観客席に目をやった。
   リリと目が合った。
   しかし――。
   リリは突然、口元を押さえて席を立ち、最 
  後の面会の時の光景を再現するかのように、 
  くるりと背を向けて、そのまま、どこかへ走 
  り去っていってしまった。
   レンクスは、愕然としていた。
   リリは、自分が人を殺してまで生き延びる 
  ことを望んではいないのだ――。
   考えてみれば、リリがいるのは三号棟側な 
  のである。
   賭けに参加しているならばともかくとして 
  も、そうでないのであれば、大抵は自分のゲ 
  ート側の剣士を応援する。それは、反対側の 
  相手を応援して仮に勝ったところで、悠然と 
  花道に引き上げてくる時の姿を見ることがで 
  きないからである。
   リリは、俺の応援ではない?
   相手の応援――?
   もう、これ以上、人を殺すなということな 
  のか――!?
   リリ――!
   再び、ズキン――、と肩の痛みが襲ってき 
  ていた。
  
  
   もっとも、〝ゲーム〟のルールもよく分か 
  っていないリリには、少なくとも座席の選択 
  に関しては、そうした深い意図はなかった。 
   レンクスの顔がよく見える位置に座ってい 
  ただけである。
  「殺せ――!」
  「殺せ――!」
  「殺せ――!」
   観客たちが身を乗り出して叫び声を上げて 
  いる。
   その歓声が一際大きくなった。
   今、ちょうどレンクスが相手の剣を弾いた 
  ところであった。
  「ああ畜生――!」
   気の早い近くの観客が、右手に握り締めた 
  名札を足元に叩き付けた。
   名札に書かれていたのは知らない名前で、 
  どうやら、レンクスの対戦相手の名前が書か 
  れていたらしい。
   つまり、レンクスが勝ちそうなのである。 
   リリは見ていてもよく分かっていなかった 
  が、相手の剣を弾いたということは、なるほ 
  ど、有利には違いない。
   リリは、鼓動が速くなるのを感じていた。 
   どうしよう――。
   あの人が、人を殺してしまう――。
   そんなのは、見たくない――。
   けれども、そうはならなかった。
   どうしたことか、レンクスが右の肩を押さ 
  えて蹲ってしまった。
   その間に、相手は剣を拾い直してしまって 
  いる。それを見て、名札を自分から投げ捨て 
  た先の観客も、慌てて拾い直した。
  「何だそりゃァ――!」
   別の観客が怒鳴った。
   彼も名札を握り締めていて、どうやら、レ 
  ンクスに賭けているらしい。
  「遊びじゃねえんだ! こっちは金を賭けて 
  んだぞ――!」
   リリは思わず、その観客の横顔を見てしま 
  っていた。
   何を言っているの、この人――?
   あの二人は、命を賭けているんじゃない― 
  ―!
   でも――。
   リリは視線をレンクスに戻した。
   本当に、どうしたんだろう?
   肩を押さえて蹲るレンクスを見下ろしなが 
  ら、リリはふと雑談の折りに、彼から四十肩 
  が痛むから大変だと笑いながら話していたの 
  を思い出して、ハッとした。
   剣が、振れないんだ――!
   このままでは、レンクスが殺されてしまう 
  ――!
   まるで、自分の胸が貫かれるような錯覚に 
  陥って、リリの心臓は暴れ回るほどに高鳴っ 
  ていた。
   リリには、祈ることしかできなかった。
   神様どうかあの人をお守り下さい――
   乙女の祈りが天に届いたのだろうか。
   レンクスが、再び剣を構えて立ち上がった。
   歓声に押されるようにして、初めの勢いを 
  取り戻したレンクスは、リリが固唾を呑んで 
  見守る側にじわじわと相手を追い詰めてくる。
   そして、ついにレンクスが相手を地面に倒 
  した。
   レンクスが、勝ったんだ。
   リリは、ほっと胸を撫で下ろした。
   その時。
   レンクスと目が合った。
   リリは、思わず席から立ち上がっていた。 
   レンクスは今にも相手にとどめを差そうと 
  している。
   リリを急激な吐き気が襲ってきた。
   やっぱり、見たくない――。
   〝ゲーム〟が始まって以来、殺気立った興 
  奮の渦にあてられたリリは、先ほどから、も 
  う、ずっと気分がすぐれなかった。
   堪えきれなくなって、リリは闘技場に背を 
  向けて駆け出していた。
   レンクスが人を殺すその瞬間だけは、リリ 
  はどうしても見たくはなかった。
  
  
   観客席から一号棟へ続く通路の壁にもたれ 
  て、リリはまるでいつかの囚人のように地べ 
  たに座り込んで蹲っていた。
   歓声が、かすかに聞こえてきた。
   そして、また静かになった。
   今、レンクスが勝ったところだろう。
   リリは、見届けることができなかった。
   やっぱり、このままではいけない――。
   リリは、そう思った。
   頬を伝う涙を拭って、表情を引き締めたリ 
  リは、ふと、自分が左手にずっと握っていた 
  鉢植えの存在に気付いた。
   そうだ、レンクスに花を渡しに来たんだ。 
   レンクスが好きだと言っていた、一輪だけ 
  咲いた白百合の花である。
   その時に、ちゃんと謝ろう。
   この前のこともちゃんと謝って、また足繁 
  く通おう。
   しばらく面会に来ていなかったから、今ま 
  でに持ってきた分は皆、枯れてしまったかも 
  しれない。
   リリは、おもむろに起き上がって、通路を 
  歩き始めた。
   そして、階段を下りて一号棟のロビーに出 
  た時だった。
   監獄に通っている内にすっかり顔馴染みに 
  なった看守と、ばったり行き会った。
  「ご無沙汰しておりました」
   リリが頭を下げると、彼の方も「ああ、君 
  か――」と応じた。「すると、〝ゲーム〟を 
  見てきた帰りかね?」
  「はい――」
  「そうか――。私も下から見ていたんだが― 
  ―」
   看守はそこで一度言葉を切り、泣き腫らし 
  たリリの表情をちらりと窺った後、「残念だ 
  ったね」と言った。「勝てたと思ったんだが 
  ――」
   リリは、耳を疑った。
   勝てたと思った?
   思ったって、どういうことなの――?
   思わず立ち尽くしたリリに、看守はばつの 
  悪そうな顔で歩み寄ると、周囲を少しだけ気 
  にした後、だらりと下ろした彼女の右手に、 
  そっと小さな石を忍ばせた。
   呆然としながらも、リリがそれを見れば、 
  輝く黄水晶の原石であった。
  「本当はいけないんだが、彼が掘り出した石 
  の一つだ。形見に持っておきなさい」
   形見って、どういうことなの――?
   それから、看守はリリが持ってきた鉢植え 
  をいつもそうしていたように受け取った。
  「彼のところに届けておこう。これが最後に 
  なるね」
   それから、看守はリリの肩の重荷を解くつ 
  もりで「今まで、ご苦労さん」と言って、ポ 
  ンと一つ叩くと、踵を返して二号棟の方へ歩 
  いていった。
   一人きりになって、リリはその場にしゃが 
  み込んでいた。
   レンクスが、殺されてしまった――?
   どうやったら、あの状況から逆転されるの 
  か、リリには想像も付かなかった。
   きっと、私のせいなんだ。
   リリは、どうしてか、そんなことを思った。
   最後にレンクスと目が合った時のことを思 
  い出していた。
   私が逃げ出したからだ。
   私が背中で、殺すなって言っちゃったんだ。
   私が、死ねって言っちゃったんだ。
   人殺しは、私だ――!
   込み上げる嗚咽を抑えきれなくなって、リ 
  リは黄水晶の原石を握り締めた両手を口元に 
  押し当てた。
   声を押し殺してむせび泣くリリの姿は美し 
  くて綺麗で、しかし、もろく儚くもあり、そ 
  れはまるで彼女が手にした黄水晶のように、 
  きらきらと輝いていた。
  
  
   誰もいない独房に、花、一輪――。
   今、その最後の花びらが散ったところであ 
  る。
  
                   終わり