誰もいない独房に、花、一輪――。
  
  
   その男は、薄暗い坑道の壁にもたれ、膝を折り曲げて地べたに座り込んでいた。
   年齢は五十を越しているように見えたが、もしかしたら見かけよりも若いのかもしれな 
  い。固く閉じた目元に深い皺を寄せて、男は静かな寝息を立てていた。
  「――さん。レンクスさん」
   肩を二、三度軽く動かされて、その男――、レンクスがうっすらと目を開けると、傍ら 
  に、チャドの姿があるのを見つけた。
   チャドは、レンクスよりだいぶ若く、おそらくは二十代だろう。まだ三十歳には達して 
  いないように思われた。
  「そろそろ、看守の奴が回ってくる頃ですぜ」
   チャドはそう言うと、右手に握っていた二本の鶴嘴の内の片方をレンクスに差し出した。
   レンクスは、目をこすりながら欠伸をかいた後、「すまん、チャド」と礼を言って、そ 
  の鶴嘴を受け取った。
   それから、レンクスはおもむろに起き上がると、チャドと肩を並べて鶴嘴を固い岩盤に 
  打ちつけ始めた。
   二人は同じ服装をしていた。
   ぼろ切れを繋いで縫った作業着は、囚人に着せるものだった。
   その作業着がはち切れんばかりに、二人の太い二の腕や分厚い胸板は筋骨が隆々として 
  いるわけなのだが、その一方で、そうした体格にはあまりにも似つかわしくない書生のよ 
  うな青白い肌をしている。
   それは二人が、ひもすがら、こうして陽にも当たらず、もぐらのような暮らしを続けて 
  いるせいであった。
   いや、二人だけではない。ここの囚人は皆、そうした風貌に変わっていく。
   掘削作業にとりかかって数分もしないうちに、レンクスは「ふう、きついな――」と鶴 
  嘴を振り下ろす手を休め、肩を揉みほぐしながら天を仰いだ。
   視線の先には、低い坑道の天井があった。
   天井は、いくつもの亀裂が目立ち、今にも崩れ落ちそうな気配だった。事実、先日も坑 
  道内で落盤があって、二人だか、三人だかが落命したばかりだった。
   天井をくねくねと蛇のようにのたくる何本もの太いパイプは、地中に空気を送り込むた 
  めの設備である。このパイプがなければ、囚人は皆、酸欠で息絶えてしまうことだろう。 
   黙々と掘削作業を続けていたチャドが、横目でレンクスの方を見て言った。
  「レンクスさんよォ――。そんなことじゃァ、次の〝ゲーム〟で生き残れませんぜ」
   チャドの言葉に、レンクスは少し寂しそうに笑った。
  「ああ――。分かっちゃァいるんだが、寄る年波には勝てないってやつでな。すっかり四 
  十肩だ」
  「痛むんですかい?」
   チャドは訊いた。もっとも彼はまだ若かったから、それほどの興味はないようだった。 
  「おうよ。腕が思うように上がらねえんだ。無理に動かそうとでもすりゃァ、ビリッとく 
  るぜ」
  「へえ、そうなんですか――。四十肩ってのは、年を取ると誰でもなるもんですかい?」 
  「そうさ。いずれお前にだって、この苦労が分かる日が来る。ざまァみろってんだ」
   レンクスは、ムハハと笑った。
   ちなみに、レンクスは一応、四十肩になるのはどうやら運動不足かららしいと知っては 
  いたのだが、何とも体裁が悪くて、チャドにはそのことを隠しておいたのだ。
   昔から怠けていたのが祟ったかな――。
   レンクスはそんなことを考えながら、痛む肩をおしてまた鶴嘴で岩盤を掘り始めた。
   看守が囚人の見回りに来たのは、それからほんの少し経ってのことだった。
   巡回に来た看守は三人、揃って軍服にも似た制服に身を包み、腰には一剣を佩いていた。
   看守といえば囚人を鞭打つイメージがあるが、ここの囚人には鶴嘴を持たせている。鞭 
  では不充足であった。
   彼らは、鋭い視線で二人の仕事ぶりをしばらく眺めていた。
   しかし、忠実な様子で労役につく二人を見ては、刀剣を振るう必要もなく、「もうすぐ 
  定刻だ。上がれ」とだけ言い残して去っていった。
   二人は、やれやれという風に働く手をとめた。
   砂塵にまみれた作業着の袖で額に浮かんだ大粒の汗を拭った後、レンクスは「今日も疲 
  れたな――」と呟いた。
  「レンクスさんは、居眠りしていただけじゃないんですかい?」
   チャドは、ニタニタ笑いながらそう言った。
  ちげえねえな」
   レンクスも笑って、そう答えた。
   それから、「しゃァねえ、ネコぐれえ運んでやるとするか」と言うと、土砂を積んだ猫 
  車の柄に手をかけ、坑道の中を押して歩き始めた。
  「鶴嘴、持ちますぜ」
   チャドの言葉に従い、レンクスは「おっ、すまん」と鶴嘴を手渡した。
   坑道を歩きながら、チャドは腰に吊した巾着にガサゴソと手を突っ込み、その日掘り出 
  した鉱物を摑んだ。
   透明の多面体。水晶である。
   チャドは、巾着から取り出したその水晶を、坑道の壁に等間隔で点々と並ぶ蠟燭ろうそくの灯り 
  に透かしてみた。
   黄色く色が着いて見えるのは、光の加減で灯りが透けているのではなく、水晶自体が元 
  々その色をしているためである。
   黄水晶とかシトリンとか呼ばれている石で、本来は無色透明である水晶に不純物が交じ 
  って発色している。ここでは黄水晶で通すことにしよう。
   チャドは、チッと舌打ちをした。
  「こんな高価なもんに囲まれて暮らしてるってのに、ちっとも嬉かァねえや――」
   黄水晶をくすねようと思えば、いつだってできる。看守の目もそこまでは行き届かない。
   しかし、そうする囚人は一人もなかった。
   彼らは、多分、死ぬまでこの監獄から抜け出せないのだから。
   掘り出した黄水晶をくすねてみたところで、いくらなんでも冥府にまで持っていくわけ 
  にはいくまい――。
  
  
   坑道の出入り口は、監獄の東庭に直結している。
   ここ、ドルドーラ監獄は、黄水晶鉱山の麓に設けられているのだ。
   監獄の東庭は、縦長の敷地である。
   背面は鉱山の岩肌、左手には壁、正面は多少遠いが同じく壁、そして、右手にもやはり 
  壁があるが、この壁は庭側に湾曲している。
   背面の山はもちろん、三方の壁にしても、それらはあくまでも高く、とても人間がよじ 
  登れる造りではない。
   それでは、庭の出口はどこにあるのかといえば、その湾曲した右の壁のもっともせり出 
  した位置に連結する形で、二号棟と呼ばれる直方体の建物がうずくまっており、屋内に出入り 
  するための扉はその二号棟に設けてある。
   二号棟には、看守の詰め所や囚人を閉じ込めておく監房、手洗い場、食堂といった施設 
  がある。疫病を予防するために、なかなか広々とした浴場もあり、そこでは入浴のほか衣 
  類の洗濯なども囚人各々の手で行われていた。二号棟の向こう側の脇には倉庫があり、囚 
  人たちが使った鶴嘴は、各自でそこへ返すのが常である。
   二号棟が存在する以上、一号棟というのもやはりあるのであって、それは監獄の正面に 
  位置して外壁と連結して、門の役割を果たしている。一号棟の施設としては、看守の詰め 
  所はこちらにもあり、後は監獄長室、面会者の受付、および待合室などが設けてある。面 
  会室もこちらの棟の方にあって、囚人が一号棟を利用する機会は、その時くらいしかなか 
  った。
   ちなみに、三号棟というのも存在する。三号棟は監獄の西側にあり、二号棟と対称の造 
  りになっている。施設は二号棟と全く同じである。従って、三号棟にもやはり囚人がいて、
  今頃、同じように苦役を終えたところだろう。
   監獄の三つの棟の位置関係をさらうには、まず横長の長方形を想像してもらいたい。縦 
  横の比は一対二程度とする。
   上辺が北で鉱山の岩肌。下辺と左右の辺は、監獄の外壁に当たる。
   一号棟は、下辺の中点に位置する。
   上辺の、一号棟と対称の点には建物はないのだが、その二点を結ぶ直線を直径とする円 
  を引く。すると、横長の長方形の中に、都合、三つの空間ができると思う。
   その内、右辺側の空間が東庭で、左辺側の空間が西庭にあたる。
   二号棟と三号棟は、それぞれの庭にせり出した半円の頂点に位置する。
   では、円の内側の空間はどうなっているのか。中庭なのか。
   それは、少し後に触れることにしたい。
   よって、外に通じているのは一号棟のみということになるが、仮に脱獄を試みようとし 
  た場合、命の危険を冒してそこに押し入り、どうにか門を抜け出したところで、実は監獄 
  があるのは孤島である。
   監獄島かんごくじま。それが島に付けられた名前だ。
   地形学的にはカルデラと呼ばれる土地構造にあたり、鉱山を中心に据える盆地の周囲を 
  ぐるりと高い外輪山が巡り、そこに雨水が溜まって湖を作っている。殺伐とした監獄の有 
  様を隠して、それはやけに青く澄んだ水を湛え、まるで風のない時などには、湖面に美し 
  く裾野を広げて逆さの鉱山を映す。
   湖の向こう岸、外輪山の麓には街が見えているが、それは蜃気楼のように果てしなく遠 
  く、到底、泳ぎきれる距離ではない。
   桟橋に船はない。自然の檻である。
   これまでに脱獄に成功した者は一人もいないと聞く。
   もっとも、人間の適応力のなせるわざか、いざ慣れてしまえば監獄の暮らしも自由こそな 
  いが、それほど悪くはない。敢えて脱獄を企てる者自体が稀である。
   さて、レンクスとチャドは二号棟の入り口をくぐった。中には、彼らより先に戻ってい 
  た囚人たち数十名が、縦隊を組んで整列していた。
   二人は隊列に加わる前に、二号棟に入ってすぐのところにある看守の詰め所で、掘り出 
  したばかりの黄水晶を煙草タバコに換えてもらった。監獄の中では、それが唯一の黄水晶の存在 
  価値であった。
   看守から受け取った煙草はたった三本。
   原石の大きさにもよるが、基本的には黄水晶と煙草、一対一の歩合である。
   相場の数百倍で、ぼったくりもいいところだが、その差額がそのまま街の収益になって、
  対岸に暮らす人々の暮らしを潤している。
   代わりに囚人たちが得るのは、一時の快楽である。
   もっとも、煙草をやらないチャドは、苦役の報酬として得た貴重な三本の煙草をそっく 
  りそのままレンクスに渡してしまった。
   レンクスは「では、失敬」と言ってそれを受け取り、早速、作業着の胸ポケットのボタ 
  ンを外して、そこからマッチ箱を取り出した。
   そして、右手で二、三度カタカタと振ったみた後で、ケースを押しだしてマッチ棒を一 
  本つまみ取り、くわえ煙草に慣れた手つきで火を点けた。
   マッチ棒の火を吹き消すと、レンクスは燃えかすの捨て場に困った挙げ句、結局はその 
  辺にポイと投げてしまった。
   それを見ていた引率の看守に睨まれて、レンクスは慌ててそれを拾うとチャドに押し付 
  けた。チャドは顔をしかめたが、レンクスには逆らえなくて、おとなしく自分の作業着の 
  ポケットにそれを仕舞った
   レンクスは、旨そうに煙草をくゆらせながら、「ふぅ、生き返るねえ」と言って満足そ 
  うな笑顔を浮かべた。
   それから、「たまにはお前もやるか?」と吸いかけの煙草をチャドの方に突き出した。 
   チャドは少し身をのけぞらせて、それを拒んだ。
  「いいスよ。そんなもん、どこが旨いんだか――」
   レンクスは「お前も青いな。この味が分かるようになって初めて、男は一人前だぜ」な 
  どとわけの分からないことを言い、ヤニで黄ばんだ歯を見せてニカッと笑った。
   やがて、囚人の数が揃い、隊列は規律的に一、二、一、二――、と歩き始めた。
   監房の前まで来て、囚人の行進は止まった。
   先頭に立って引率してきた看守が、くるりときびすを返した。
   彼はここの監獄長だった。
   監獄長が右手を高く挙げて合図を送ると、隊列の脇を固めていた看守たちが動いた。牢 
  の扉を開け、囚人を一人一人押し込むと、錠前に固く鍵をかけた。
   監獄長は、錠前のかかり具合を機械的に確認しながら、他の看守たちを引き連れ、足音 
  高く去っていった。
   レンクスは独房の冷たい床の上に、足を組んでゴロリと寝転がった。
  「やっぱり一人部屋はいいねえ」と呟いてから、いい加減短くなった煙草を壁に押し付け 
  て火を消した。
   吸い殻をその辺に投げ捨てると、レンクスは退屈になって、向かいの独房に同じような 
  格好で寝転んでいたチャドに「おい」と声をかけた。
  「何ですか?」 
   チャドは迷惑そうに返事をした。
  「何かおもしれえことねえか?」
  「ないスよ――。こんなとこじゃァ、何も」
  「そうか――」とレンクスは深く溜め息をついた。
   それから、他にすることもなくて二本目の煙草に火を点けた。
   煙を吐き出す時に頬を人差し指でトントンと叩いて、レンクスは器用に煙の輪っかを作 
  ってみせた。
   チャドが「上手いもんですねえ」と感心している。
  「そうだろう」
   レンクスは得意げに笑った。
   しかし、そんなことができたところで、別にどうということもないのである。
  
  
   レンクスが三本目の煙草をふかし終える頃になって、彼の独房に看守がやってきた。
   何事だろうと訝りながら、レンクスは硬い床の上に横たえていた身体を起こした。
   看守が錠前を外しながら、「お前に面会が来ている」とレンクスに告げた。
  「面会――?」
   まるで心当たりのないレンクスは、眉をひそめた。
   レンクスは収監されてもう十年になるが、面会などは一度もなかった。
   向かいの独房から、チャドも興味津々という目でレンクスを見つめている。
   レンクスは戸惑いながら、鍵を外された独房から出た。
   看守に後ろを見張られながら、レンクスはトボトボと歩いた。
   二号棟から廊下伝いに一号棟へ行き、面会室へと通された。
   面会室は、厚い壁で部屋を二分されており、片側に囚人、もう片側に面会者が入る。そ 
  の壁には鉄格子の窓があって、そこからお互いの顔が望めるようになっていた。
   レンクスが面会室に入った時、窓の向こうにはすでに面会者の顔があった。
   十七、八歳くらいの、若い娘だった。
   対岸の街の住民であろうか。薄汚れた作業着を着たレンクスとは違って、年頃の娘だけ 
  あって小綺麗にしていて、白いワンピースの上に、腕を日焼けしないようするためか、淡 
  い水色のスカーフを肩から掛けていた。
   目鼻立ちも整っていて、乳白色の頬は化粧などをせずとも張りがあり、栗色の髪は艶や 
  かで流れるように華奢な肩の向こう側に滑り降りていた。
   美しい娘だった。
   看守も思わず、あまりに釣り合いの取れない二人を何度か交互に見つめ直した後、自分 
  の仕事を思い出して、面会時間を告げると部屋を出ていった。
   面会室の中は、レンクスとその娘の二人だけになった。
   レンクスは、軋む丸椅子に腰を下ろした。
   格子窓の隙間越しに、娘と目が合った。
   娘は、ひどく緊張した様子で、しきりによくけているはずの髪を気にしながら、軽く 
  顎を引くようなかたちで会釈をした。
   レンクスは笑わない。不審そうに、娘を眺めただけだった。
   誰だ――?
   知らない娘である。
   レンクスの不審を見て取り娘は「あの突然お訪ねしてすみません」と謝た。
  うですよね。覚えていませんよね――」
   娘の口ぶりからすると、どうやら向こうはレンクスのことを知っている風である。
  「ああ、悪いんだが記憶にない。誰かと勘違いしているんじゃないか? あんたみたいな 
  別嬪さん、一度会ったら、忘れちまうわけが――」
   そう言いかけて、レンクスは当然のことに気付いた。
   先に述べた通り、レンクスが収監されてから、もう十年経つ。
   レンクスが娘に会っていたとすれば、それ以前であって、すると、彼女はまだ十歳にも 
  満たない計算になり、当然、外見も今とは大きく異なっていたはずだ。
  「いや――」とレンクスが言った。「待てよ。もしかすると――」
   思い当たる節があったのである。
   そういった目で娘をまじまじと見つめると、なるほど、確かに面影が感じられるのだ。 
  「イングリットの娘さん、か――?」
  「はい――!」
   娘の頬が、少しだけ上気して薔薇色に染まった。「あの、私、リリと申します」
   リリと名乗った娘は、レンクスに向けて丁寧にお辞儀をした。
  「そうか。それで俺を知っていたのか――」
   レンクスは、二、三度、重く頷いた。
   イングリットというのは、レンクスが収監される原因を作った女であった。
   十年前、レンクスはイングリットの夫を殺していた。
   もっとも、それにしては、リリの態度は父親の仇を前にしたものとしては、いささか不 
  自然ではあるが――。
  「親父さんのこと――、申し訳ないことをしたと思っている」
   それでも、レンクスが弁解をせずに謝罪をすると、リリはやはり首を横に振った。
  「私、知っています。全て、母から聞きました」
   リリはそう言った後、「先月、母が病気で亡くなる前に――」と付け足した。
   レンクスは、大きく目を見開いていた。
  「イングリットが――、死んだ――?」
  「はい」
   リリは目を伏せた。「父を奪ったあなたのことを、私はずっと恨んで生きてきました。 
  父はもういないのに、あなたは生き続けている。どんな暮らしをしているのかは、今日ま 
  で知りませんでしたが、生きているというだけでも許せなかった。でも、違ったのですね。
  だって、十年前に父を殺したのは、母だったのですから――」
  「声が大きい」とレンクスはリリを咎めた。
   面会室の外では、看守が控えている。
  「やはり、本当なのですね――?」
   リリが確認するようにレンクスに尋ねた。
   レンクスは肯定も否定もせず、押し黙った。
  「無実のあなたが、十年もどうしてこんな所で――」
  「俺が殺したんだよ」
  「母を、愛していたのですか――?」
  「――」
  「でも、母はひどい人ですよ。あなたに愛される価値なんて、これっぽっちもない。あな 
  たをこんな所に押し込めておいて、自分は不自由なく生きて、一度だって、面会にも来て 
  いないのでしょう――?」
  「自分の母親をそんな風に言っちゃァいかん」
  「だって、そうでしょう――!?とリリが少し口調を強くした
  「じゃァ――」とレンクスは言葉を変えた。「俺が愛した人を、そんな風に悪く言わんで 
  くれ――」
  「はい――」
   リリは、力なく頷いた。
  「それになァ、自分の夫を殺した男のところに、ちょくちょく会いに来ていたら、誰だっ 
  て変に思うじゃないか。そうだろう――?」
  「ええ――、でも、それではあなたが――」
   言葉を詰まらせて、リリは口元に手を当てた。
  「あんたはいい娘さんだね」とレンクスは笑った。「イングリットの娘さんだ。そうだろ 
  う。イングリットもそうだったさ。今わの際まで俺を気にしていてくれたんだろう? そ 
  れが答えじゃァないか――?」
  「ええ――」
   リリは頷いたが、それでも、下唇を嚙んで結んでいた。
  「さァ、そろそろ時間になる。帰ってくれ。それで、もう来なくていい」
  「いえ。また来ます」とリリは言った。
  「あんたが責任を感じて、こんな所まで年寄りの慰問に来る必要はないんだ。若い人同士、
  楽しくやってくれるのが、俺としては一番、嬉しい。それに、実際、あんなに何一つ責任 
  はないんだ」
   レンクスはどうにか説得を試みたが、リリは「必ず来ます」と言って、頑としてそれだ 
  けは譲らなかった。
  
  
   それから、リリは頻繁にレンクスの元に訪れるてくるようになった。
   監獄島との連絡は、時折り街から出る船が行っている。
   船は、リリのような面会者を乗せて監獄島の桟橋に付けて、面会時間のわずかな間だけ 
  停泊する。
   脱獄抑止のために、監獄島の側に船がある時間は短い。
   日にちを定めていないのも、同じ狙いである。
  「今日は、お花を持ってきました」
   リリが窓ガラス越しに見せた鉢植えは、ルピナスであった。
   白い鉢の上で、藍色の花が円錐状に咲き誇っていた。
  「花かァ――」とレンクスは苦笑いを浮かべた。
  「あの、もしかして、花はお好きではありませんでしたか?」
   リリは困ったように形のよい眉をひそめた。
  「いや、別に嫌いじゃァないが。でも、ここじゃァ、すぐ枯れちまうからなァ」
  「でも、枯れてしまったら、また持ってこられますから」
  「ああ――。いや、だがな。俺ァ、こういう、わさっとした花はどうも好きじゃァないん 
  だよな。こう、ぽつん――、と一輪だけ咲いている感じの方がいい」
   せっかく持ってきた鉢植えをけなされて、リリは少しだけ膨れっ面になった。
  「でも、私はルピナスは好きです。何だか、いっぱい咲いている感じが。母が好きだった 
  影響もあると思いますけど」
  「そうかァ? 例えば、こうやって円錐の形をしているのもな――」
   レンクスは、ルピナスの形にまで文句を付け始めた。「俺の独房の窓からは湖に鉱山が 
  映るのが見えるんだが、あれは対岸からも見えるのか?」
  「ええ。街からも逆さの山が見えますよ」
  「そうだろう? だが、こっちから見ると逆さではないのさ」
  「あ――。そうですよね。何だか、不思議な感じですけど――」
  「不思議というか、そのままさ。こっちは山の底辺のまだ下で、なのに、そっちは頂上よ 
  り上にあるんだなァって、そんなことを考えて、俺たちはいつだって拗ねているのさ。だ 
  から、円錐っていう形はよくないんだ」
  「よく分かりませんけど――」とリリは唸った。「でも、ルピナスがお嫌いだというのは 
  よーく分かりました。次からは違うお花にします」
  「いや、つまり、もう持ってこなくていいって言っているんだが――」
  「いいえ、また持ってきます」
   リリは、きっぱりと言い切った。
  
  
  「お花屋さんにでもなるつもりですかい?」
   レンクスの独房を眺めながら、チャドが冷やかした。
  「知るかよ」とレンクスはそっぽを向いた。
   彼の手狭な独房は、色とりどりの鉢植えですっかり埋め尽くされて、少し前までなら煙 
  草のにおいしかしなかったはずだが、今ではかぐわしい香りさえ放っている。
   レンクスは、鼻の辺りがむず痒くなって、一つ、大きなくしゃみをした。
  「畜生め――。すっかり花粉症だ」
  「でも、その割りには枯らさないようにちゃんと世話をしているじゃァないスか」
  「まァな。花もこんな暗がりじゃァ、あんまり元気がないけどな」
  「そうやって、ちゃんと世話すれば、来年もまた花開くんですか?」
  「ん? いや、これとかは皆、一年草だからな。その内、種を残して枯れちまうんだ。翌 
  年も咲かせたければ、またその種から育てるのさ」
  「へえ――」
  「もっとも、来年までこっちが生きていられるか分からんがな」
  「そうスね――。今年も、だいぶ人が増えてきて、そろそろ独房が足りなくなってきまし 
  たからね――」
   監獄に収監されているのは、皆、死刑囚である。
   もっとも、労働力にもなっているので、そう易々と命を奪われることはないが、それで 
  も独房が埋まってくると、囚人の数を減らさなければならない。
   ドルドーラ監獄では、実利とショーを兼ねた、風変わりな処刑方法を採っていた。
  〝ゲーム〟――。そろそろかもしれないス」
   それが、チャドの言った〝ゲーム〟である。
   囚人同士に剣を持たせて戦わせ、勝ち残ればよし、敗れてたおれれば、それで死刑は執行 
  されたことになる。
   そして、この〝ゲーム〟が行われる場所というのが、先に建物の位置関係を説明した際 
  に後で触れるとした、円の内側の空間なのである。円構造は闘技場のそれである。
   闘技場の壁、すなわち円周の部分は観客席にもなっていて、ショーを兼ねているという 
  のは、開催時にはそこに対岸の街から集客を行うためである。
   見せしめの意味合いもあり、より多くの者に見せるために観戦自体は無料である。
   もっとも、公営の賭博も行われていて、観客は試合ごとに勝ち負けを予想して金を賭け 
  ることもできる。五分のテラ銭を取るので、一応、街の収入源にはなっている。
   しかし、不定期に開催される〝ゲーム〟において、普段、生活を共にしている囚人同士 
  が戦うとなると、闇討ちをくわだてる、あるいはそれを恐れすぎて、本来の労役に支障が出る 
  ような事態も想定されるが、そこはちゃんと考えられている。
   先に、レンクスたちのいる二号棟の他に三号棟があると述べた。それがその答えなので 
  あって、二号棟の囚人と三号棟の囚人とが殺し合うのである。だから、それぞれの棟の囚 
  人同士の結束が崩れることはない。
   〝ゲーム〟は、ほぼ毎年開催されているのだが、全員が参加するわけではない。
   もっとも、任意参加のような、手ぬるいお遊戯などでは一切なく、もちろん強制参加で 
  はあるが、参加者として選出されるのはおよそ半数である。
   半数同士が、それぞれ一対一でぶつかり合ってその半数になる。従って、毎年、囚人の 
  四分の一ほどが入れ替わる公算である。
   これまでにレンクスは四回ほど参加しているが、どうにか生き延びている。
   ちなみに、チャドは収監三年目なので、まだ一回である。
   昨年参加しているチャドはともかくとして、レンクスは今年は駆り出される可能性が高 
  い。
  「弱ったなァ――」とレンクスは嘆いた。
   もっとも、四回も〝ゲーム〟に参加して生き残っている強者はレンクスの他にはいない 
  が、それでもレンクスは今度ばかりは、まるで自信がなかった。
   四十肩が原因であった。
   これでは剣を思うように振るうことができない。
   もっとも、一月ほど前までなら、投げやりになっていたところだが、ここ最近になって、
  どうにもレンクスを生に執着させる原因ができてしまった。
   リリである。
  「いつ死んだって、よかったんだけどなァ――」
   もっとも、レンクス自身は今だってそう思っている。
   ただ、もしも自分が死んでしまったら、リリが悲しむような気がするのだ。
  「思い上がりかなァ――」
  「何がですかい?」
   チャドが瞬いた。
  「ん――? いや、こっちの話さ」
   レンクスは苦笑した後、もう一度、派手なくしゃみをした。
  
  
   何の前触れもなく、食堂に〝ゲーム〟の開催を告知する紙が貼り出された。
   チャドは漏れたが、レンクスは案の定選ばれていた。
   朝食の前に貼り出されていたので、必然的に食事中の話題は、どの卓ももっぱら〝ゲー 
  ム〟の話題になっていた。
  「肩、まだ治らないんスか?」
  「ああ――。こりゃァ、ちょっと無理かもしれん」
  「今から弱気じゃァ、勝てるもんもかてねえスよ」
   チャドは顔をしかめた後、「そういや、相手どんな奴なんスか? 知っている奴スか?」
  とレンクスに尋ねた。
  「さァな――。殺した奴なら全員覚えているが、他の奴まではなァ。それに、去年入った 
  初顔かもしれん」
  「そうスか――。でも、レンクスさんなら、肩さえ何とかなれば絶対負けませんよ。一昨 
  年、観戦した時なんか鬼神のようでしたぜ」
   闘技場の観戦席は、囚人用にも設けられている。
   チャドが見たというのは、そこからの光景である。
   持ち合わせのない彼らは賭博に参加することはできないが、賑わいにはなるし、特に収 
  監一年目の者たちに〝ゲーム〟の雰囲気を肌で覚えさせるためにも、参加しない者は強制 
  で観戦させられる。
  「まァ、ちったァ心得があったからな」
   レンクスは、おだてられて鼻をこすった。
  「俺なんか、昨年、腰が引けてましたよ。前夜なんか、ワーワー泣いちまって。もう、み 
  っともねえったらありゃァしねえ」
  「それが普通さ。敵さんだってそうさ」
  「でも、レンクスさんが観客席から『帰ってこい!』って叫んでるのが聞こえきたス。そ 
  れで、奮い立たったというか――」
  「何度目だァ? その話――」
   レンクスが指摘するとチャドは小っ恥ずかしそうに笑ったが、すぐに真顔になった。
  「だから、俺、レンクスさんにも帰ってきてほしいスよ」
  「ああ、できればそうしたいが。だが、肩がな――」
  「なんなら、風呂場で俺が揉んでやりましょうか?」
  「よせよ。気持ち悪い。俺ァ、お前の親父さんじゃァねえぞ」
   レンクスは苦笑した。
   それから、彼は少しばかり愚かなことを空想した。
   もしも、リリが肩を揉んでくれたら――。
   そんな馬鹿な空想である。
   でも、そうしたら、どんな相手だって勝てそうな気がしていた。
   もっとも、そんな機会は来るはずもないのだが。
  
  
  〝ゲーム〟――?」
   リリは瞬いて、レンクスが言った単語を繰り返した。
   対岸の街に暮らしながら、リリはどうやらドルドーラ監獄で催される行事を知らなかっ 
  たらしい。
   もっとも、〝ゲーム〟に興じる者の多くは男である。それも中年が多い。
   若い娘であるリリが知らなかったとしても、それほど不思議ではない。
   あるいは、イングリットが監獄に関する情報を、できるだけ彼女の耳に入れないように 
  していたのかもしれない。
  「ああ。知らなかったか――」
  「ええ。初めて聞きました。それで、その〝ゲーム〟に参加して、レンクスさんは何をな 
  さるんですか?」
  「ん――? まァ、剣闘みたいなものだ」
  「へえ――!」
   リリは、感心したような溜め息をついた。「なんだか、かっこいいですね」
  「そうか――?」
   かっこいいと言われてレンクスは少しその気になったがしかしすぐにリリが〝ゲ
  ーム〟について、よく理解していないのだと思い直した。
   おそらくは〝ゲーム〟という語感から、木剣でぺちぺちと打ち合うような、そんな競技 
  を想像しているに違いない。
  「あのな、つまり――」
   レンクスは、気が進まなかったが説明を始めた。「ドルドーラ監獄には、この街だけか 
  らじゃなく、色んな所からその、囚人が集められてくるんだな」
  「ええ。それが――?」
  「しかし、そうすると、段々と部屋数が足りなくなってくる。この監獄が収監できるのは、
  せいぜい百名くらいだからな」
  「ええ」
  「すると、数を調整しなければならない」
  「ええ――」
   リリは頷いたが、少しだけ顔を強張らせていた。
  「それが〝ゲーム〟なんだが――、俺の言っている意味が分かるか?」
  「――」
   リリが黙って頷かなかったので、レンクスははっきりと言い直した。
  「つまり、囚人同士で――、その、殺し合いをするんだ」
   リリが、俯いた。
  「俺は、今までに〝ゲーム〟に四回参加していて――、だから、これまでに四人殺してい 
  ることになる。すると、俺はやっぱり、あんたが最初に毛嫌いしていたのと同じ種類の人 
  間で――。つまり、俺ァ――」
   レンクスは一度言葉を切った後、言った。「人殺しなんだ――」
  「ごめんなさい――」
   口元覆った後、リリが椅子から立ち、レンクスに背を向けた。
   それまで楽しそうに話をしていたのが、まるで嘘のように、リリは肩を震わせて、もう 
  一度、「ごめんなさい――」と謝罪した後、そのまま、面会室を小走りで出て行った。
   レンクスは、それを呆然と見送った後、自嘲気味に笑ってみた。
   リリは、レンクスが彼女の父親を殺した罪で収監されていて、それが無実である以上、 
  彼が人を殺したことがないと思っていたのだろう。
   レンクスからも、敢えて言い出さなかった。
   それは、あるいは、卑怯だったかもしれなかった。
   いつも帰り際にリリが言っていた、「また来ますね」という言葉が、その日は聞くこと 
  ができなくて、実際、彼女は〝ゲーム〟開催の日まで、それから監獄を訪れなかった。
  
  
   雲一つない快晴の夏の空が、あまりにも高く感じられた。
   ぐるりと周囲を巡る、円形の壁の向こうは観客で埋め尽くされていた。
   空席は、まばらである。
   もっとも、一対一の試合しか行わない闘技場である。それほどの広さは必要ない。
   収容人数は千人ほどだが、人口のそれほど多くもない対岸の街から人を集客して、それ 
  だけ入るのだから盛況ではある。
   レンクスが二号棟のゲートから闘技場に足を踏み出すと、背後の扉が固く閉ざされた。 
   それで、逃げ場所はなくなった。
   もっとも、五回目ともなれば慣れたものである。
   ゲートのすぐ脇には、囚人用の観客席が用意されている。
   そこには、もちろんチャドの顔もあった。
  「頑張ってくだせえ!」
   チャドがレンクスに向けて声を張り上げた。
   この距離でも怒鳴らないと、歓声にかき消されてしまう。
   レンクスは右腕を曲げて力瘤を見せた後、ニカッと笑った。
   よく晴れたせいか、今日は普段と比べて肩の痛みがだいぶ内端であった。
   あるいは、気合が入っているせいかもしれない。
   反対側の三号棟のゲートを見れば、ちょうど対戦相手が出てくるところであった。兜を 
  着けているので顔は分からない。
   装備に優劣はなくて、レンクスもやはり兜を被り、左の腰には剣を佩き、左手には円盾 
  を嵌めている。
   もっとも、武装と呼べるものはそれだけで、上半身は裸で、下半身も腰巻で覆っている 
  だけである。
   遠目に相手の姿を確認すると、レンクスは腰に佩いた一剣をすらりと抜いた。
   試合前の礼などはない。
   もう、戦いは始まっているのである。
   お互いに様子を窺いながら徐々に距離を詰めていく。
   試みに剣を伸ばせば切っ先が触れ合う距離まで近付くと、歓声もより大きくなった。
   レンクスは腰を落として身構え、牽制するように剣を突き出した。
   相手も、剣を合わせてくる。
   剣捌きを注意深く見て、レンクスは相手の力量を測っていた。
   相手は――、それほどの腕ではない。
   おそらくは剣を習ったことがないのだろう。もっとも、まるで相手にならないほどの腕 
  でもないが、我流で、レンクスの突き出した剣を受け流す角度で剣を出せていない。
   勝てる――!
   レンクスは、タイミングを計って一歩足を踏み込み、まず心臓を一突きするかと見せか 
  けておいて、相手の剣を強く打ち弾き飛ばすことに成功した。
   剣は、互いに一本。
   レンクスの勝利を誰もが確信していた。
   だが、その一突きができなかった。
   あれほど調子のよかった右肩に、突然、ズキン、と鈍い痛みが走って、レンクスは肩に 
  手を当てて思わずその場に蹲っていた。
   剣が上がらなくなっていた。
   命拾いした相手は、その隙にどうにか剣を拾い直した。
   高い歓声が上がった
   怒号のような声を上げているのは、レンクスに賭けている客だろう。
   一方で、激励に近い声援は、相手に賭けている客に違いない。敗色濃厚だったのが一転 
  して、勝機さえ見え始めている。
  「レンクスさァァァァァん――!」
   突然、二号棟ゲートから、チャドの声が聞こえてきた。
   喉が張り裂けんばかりのがなり声は、闘技場の中央までよく届いていた。
  「帰ってきてくだせえええええ――!」
   レンクスは、再び剣の柄を握る力を強くした。
   生きて、帰るんだ――!
   歯を食いしばって、レンクスはぐいと首をもたげた。
   剣を握り直して、レンクスが再び立ち上がった。
   相手は、少しだけたじろいだ様子であった。
   純粋に剣の腕だけならば、レンクスの方が一枚も二枚も上手なのである。それは、剣を 
  交えた当人が一番よく分かっていた。
   もっとも、レンクスだって本調子ではない。
   牽制のし合いになって、戦いが硬直した。
   そうした二人をけしかけるように、歓声が一段と大きくなった。
   レンクスは思わず、一瞬だけ観客席に視線を移した。
   その時。
   レンクスは、そこに思いもよらない人影を見つけた。
   リリであった。
   真正面、三号棟側の一席。
   リリは真夏の強い日差しを避けるようにして、栗色の髪の上に羽根のついた白い帽子を 
  被り、ちょこんと腰を下ろしていた。
   リリが――、応援に来ている!
   レンクスは、全身に力が漲るのを感じた。
   もう負ける気はしなかった。
   肩の痛みなどすっかり忘れて、レンクスは力強い突きを出すようになった。
   相手は防戦一方になって、一歩、二歩――、と闘技場の円の中心から後退していく。
   やがて、レンクスが放った一撃が、相手の剣を強く打ち付けた。
   相手も、どうにか剣から手を離さんとして耐えたが勢いに負けて、それゆえ、剣こそ弾 
  かれなかったが、自分が尻餅をつかされていた。
   勝負あった。
   相手を三号棟側に追い詰めたゆえに、リリの姿はすぐ近くに見えているはずで、勝利を 
  確信したレンクスは観客席に目をやった。
   リリと目が合った。
   しかし――。
   リリは突然、口元を押さえて席を立ち、最後の面会の時の光景を再現するかのように、 
  くるりと背を向けて、そのまま、どこかへ走り去っていってしまった。
   レンクスは、愕然としていた。
   リリは、自分が人を殺してまで生き延びることを望んではいないのだ――。
   考えてみれば、リリがいるのは三号棟側なのである。
   賭けに参加しているならばともかくとしても、そうでないのであれば、大抵は自分のゲ 
  ート側の剣士を応援する。それは、反対側の相手を応援して仮に勝ったところで、悠然と 
  花道に引き上げてくる時の姿を見ることができないからである。
   リリは、俺の応援ではない?
   相手の応援――?
   もう、これ以上、人を殺すなということなのか――!?
   リリ――!
   再び、ズキン――、と肩の痛みが襲ってきていた。
  
  
   もっとも、〝ゲーム〟のルールもよく分かっていないリリには、少なくとも座席の選択 
  に関しては、そうした深い意図はなかった。
   レンクスの顔がよく見える位置に座っていただけである。
  「殺せ――!」
  「殺せ――!」
  「殺せ――!」
   観客たちが身を乗り出して叫び声を上げている。
   その歓声が一際大きくなった。
   今、ちょうどレンクスが相手の剣を弾いたところであった。
  「ああ畜生――!」
   気の早い近くの観客が、右手に握り締めた名札を足元に叩き付けた。
   名札に書かれていたのは知らない名前で、どうやら、レンクスの対戦相手の名前が書か 
  れていたらしい。
   つまり、レンクスが勝ちそうなのである。
   リリは見ていてもよく分かっていなかったが、相手の剣を弾いたということは、なるほ 
  ど、有利には違いない。
   リリは、鼓動が速くなるのを感じていた。
   どうしよう――。
   あの人が、人を殺してしまう――。
   そんなのは、見たくない――。
   けれども、そうはならなかった。
   どうしたことか、レンクスが右の肩を押さえて蹲ってしまった。
   その間に、相手は剣を拾い直してしまっている。それを見て、名札を自分から投げ捨て 
  た先の観客も、慌てて拾い直した。
  「何だそりゃァ――!」
   別の観客が怒鳴った。
   彼も名札を握り締めていて、どうやら、レンクスに賭けているらしい。
  「遊びじゃねえんだ! こっちは金を賭けてんだぞ――!」
   リリは思わず、その観客の横顔を見てしまっていた。
   何を言っているの、この人――?
   あの二人は、命を賭けているんじゃない――!
   でも――。
   リリは視線をレンクスに戻した。
   本当に、どうしたんだろう?
   肩を押さえて蹲るレンクスを見下ろしながら、リリはふと雑談の折りに、彼から四十肩 
  が痛むから大変だと笑いながら話していたのを思い出して、ハッとした。
   剣が、振れないんだ――!
   このままでは、レンクスが殺されてしまう――!
   まるで、自分の胸が貫かれるような錯覚に陥って、リリの心臓は暴れ回るほどに高鳴っ 
  ていた。
   リリには、祈ることしかできなかった。
   神様、どうか、あの人をお守り下さい――!
   乙女の祈りが天に届いたのだろうか。
   レンクスが、再び剣を構えて立ち上がった。
   歓声に押されるようにして、初めの勢いを取り戻したレンクスは、リリが固唾を呑んで 
  見守る側にじわじわと相手を追い詰めてくる。
   そして、ついにレンクスが相手を地面に倒した。
   レンクスが、勝ったんだ。
   リリは、ほっと胸を撫で下ろした。
   その時。
   レンクスと目が合った。
   リリは、思わず席から立ち上がっていた。
   レンクスは今にも相手にとどめを差そうとしている。
   リリを急激な吐き気が襲ってきた。
   やっぱり、見たくない――。
   〝ゲーム〟が始まって以来、殺気立った興奮の渦にあてられたリリは、先ほどから、も 
  う、ずっと気分がすぐれなかった。
   堪えきれなくなって、リリは闘技場に背を向けて駆け出していた。
   レンクスが人を殺すその瞬間だけは、リリはどうしても見たくはなかった。
  
  
   観客席から一号棟へ続く通路の壁にもたれて、リリはまるでいつかの囚人のように地べ 
  たに座り込んで蹲っていた。
   歓声が、かすかに聞こえてきた。
   そして、また静かになった。
   今、レンクスが勝ったところだろう。
   リリは、見届けることができなかった。
   やっぱり、このままではいけない――。
   リリは、そう思った。
   頬を伝う涙を拭って、表情を引き締めたリリは、ふと、自分が左手にずっと握っていた 
  鉢植えの存在に気付いた。
   そうだ、レンクスに花を渡しに来たんだ。
   レンクスが好きだと言っていた、一輪だけ咲いた白百合の花である。
   その時に、ちゃんと謝ろう。
   この前のこともちゃんと謝って、また足繁く通おう。
   しばらく面会に来ていなかったから、今までに持ってきた分は皆、枯れてしまったかも 
  しれない。
   リリは、おもむろに起き上がって、通路を歩き始めた。
   そして、階段を下りて一号棟のロビーに出た時だった。
   監獄に通っている内にすっかり顔馴染みになった看守と、ばったり行き会った。
  「ご無沙汰しておりました」
   リリが頭を下げると、彼の方も「ああ、君か――」と応じた。「すると、〝ゲーム〟を 
  見てきた帰りかね?」
  「はい――」
  「そうか――。私も下から見ていたんだが――」
   看守はそこで一度言葉を切り、泣き腫らしたリリの表情をちらりと窺った後、「残念だ 
  ったね」と言った。「勝てたと思ったんだが――」
   リリは、耳を疑った。
   勝てたと思った?
   思ったって、どういうことなの――?
   思わず立ち尽くしたリリに、看守はばつの悪そうな顔で歩み寄ると、周囲を少しだけ気 
  にした後、だらりと下ろした彼女の右手に、そっと小さな石を忍ばせた。
   呆然としながらも、リリがそれを見れば、輝く黄水晶の原石であった。
  「本当はいけないんだが、彼が掘り出した石の一つだ。形見に持っておきなさい」
   形見って、どういうことなの――?
   それから、看守はリリが持ってきた鉢植えをいつもそうしていたように受け取った。
  「彼のところに届けておこう。これが最後になるね」
   それから、看守はリリの肩の重荷を解くつもりで「今まで、ご苦労さん」と言って、ポ 
  ンと一つ叩くと、踵を返して二号棟の方へ歩いていった。
   一人きりになって、リリはその場にしゃがみ込んでいた。
   レンクスが、殺されてしまった――?
   どうやったら、あの状況から逆転されるのか、リリには想像も付かなかった。
   きっと、私のせいなんだ。
   リリは、どうしてか、そんなことを思った。
   最後にレンクスと目が合った時のことを思い出していた。
   私が逃げ出したからだ。
   私が背中で、殺すなって言っちゃったんだ。
   私が、死ねって言っちゃったんだ。
   人殺しは、私だ――!
   込み上げる嗚咽を抑えきれなくなって、リリは黄水晶の原石を握り締めた両手を口元に 
  押し当てた。
   声を押し殺してむせび泣くリリの姿は美しくて綺麗で、しかし、もろく儚くもあり、そ 
  れはまるで彼女が手にした黄水晶のように、きらきらと輝いていた。
  
  
   誰もいない独房に、花、一輪――。
   今、その最後の花びらが散ったところである。
  
                                       終わり