古ほけた白いコートを脱ぎながら、青年はカウンター席に腰を下ろした。
   連れの姿はなく、青年は一人きりだった。
   青年は右隣りの椅子いすの上に、脱いだコートを丸めて置いた。
   町はずれの、あまり繁盛していない中華料理店だった。
   店の中を見渡しても青年の他に客はほとんどなく、テーブルに家族連れが一組あるだけ 
  だった。
   もっとも、店内には四人掛けのテーブルが二つあるだけで、あとはカウンター席であり、
  もともと客はそれほど入らないのである。
   ちゆうぼう越しに店の主人の腕が伸び、グラス一杯の水が青年の目の前に置かれた。
   他に店員の姿は見えない。
   店の主人独りで切り盛りをしている店だった。
  「ご注文は?」
   厨房からの声に青年は顔を上げた。
   店の主人は洗い物の手を休めずに、青年の方を向いていた。
   額の禿げ具合や耳の下からあごにかけて生やしたしようひげから老いているように見えて
  齢は五〇を過ぎているように思えたが、もしかすると実際はそれよりも若いのかもしれな 
  い。
   まるで禿げあがった額を隠すかのように、頭にバンダナをくるりと締めていたが、それ 
  は汗を垂らさない配慮だった。
  「いえ、連れを待っていますから」
   そう青年が言うと、店の主人は軽くうなずいた。
   青年は再びカウンターの上に視線を落とした。視界の端に某社の女性週刊誌が入ってい 
  た。
   腕時計を見れば、待ち合わせた午後七時まで大分あった。
   他にすることもなくて、暇を持てあました青年は週刊誌に手を伸ばした。
   しかし、まぁ青年の興味を引くような記事はなくて、パラパラとページをめくっただけ 
  で読むのをやめてしまった。
   棚の上には招き猫の隣りにテレビがあり、バラエティー番組が流れていたが、お世辞に 
  も面白いと呼べる代物ではなかった。
   青年はぼんやりとその番組を見るともなく、眺めていた。
   ――テーブルの家族連れが席を立ち、店内の客は青年だけになった。
   七時を五分程過ぎていた。
  「大学生?」
   ふいに店の主人が言った。
   青年は声のした厨房の方を向いた。
   店の主人は青年に顔を向けていなかったが、他に客がないことはもちろん彼も知ってい 
  たので、すぐに言葉を返した。
  「あ、はい。そうです」
  「G大?」
   店の主人は県下の中堅国立大学の名を挙げた。
  「そうです」
  「何年生?」
  「今、二年です」
  「ふぅん。じゃぁ、もう二〇歳になったの?」
  「あ、はい」
   青年は答えた。「あのぅ、すみませんが、水もう一杯いただけますか」
  「あいよ」
   店の主人は水の入った重そうなポットを片手で軽々と持ち上げると、青年の前に置いた。
  「あ、どうもすみません」
  「好きなだけついで」
   空になったグラスに青年は水を注いだ。やはりポットはかなり重かった。
   二杯目のグラスを空け、青年が再び腕時計に目をやったのは、七時十五分頃だった。
   とりあえず、七時半までは待とう。
   青年はそう思っていた。七時半まで待って、それでも来なかったら――その時はまた考 
  えよう。
   三杯、四杯とのどを潤して、とうとう七時半になっても待ち人は来なかった。
  「学生さん、今夜は自棄やけ酒になりそうかい?」
   店の主人が笑みを浮かべながら、また声をかけてきた。
   食事時だというのに、この間、全く客がなかったから店の主人も余程暇であったに違い 
  ない。
   青年は受け流すだけの余裕がなくて、「ほっといてください」と口の中でボソボソと言 
  うしかなかった。
  
  
   とうとう八時十分前になっていた。
   テレビでは、先程のバラエティー番組が終わるところだった。
   青年は八時半まで待つつもりでいた。
   その時、ようやく久方ぶりに店のドアが開き、カランカランといい音がした。
  「いらっしゃい」と店の主人が言った。
   若い女性だった。
   ほおが上気して、ほんのり赤く染まっていた。
   おそらく、ここまで急いで走ってきたのだろう。あがった息を押さえるように、胸に手 
  を当てていた。長い栗色の髪が、少し乱れていた。
   黒い毛足が長くて暖かそうな、恐らくカシミヤ100%のオーバーコートを脱ぐと、若い女 
  性は片手にそれを引っ掛けて丁寧に折り畳んだ。
   カシミヤコートの下から現れた服は、若草色のツーピースで、上衣は肩の紐にリボンを 
  結んで留めるタイプ。スカートの方は膝に掛かるくらいの丈で、餃子みたいにひだの付い 
  ているやつだった。
   そのプリーツスカートを小さく揺らしながら、若い女性は青年の方へ歩み寄ってきた。 
   青年は丸めたコートを左隣りの椅子に移し替えて、その若い女性を迎えた。
  「ごめんね、待ったよね」
   若い女性はそう言って、青年の隣りに座った。その右隣りの椅子に、彼女はカシミヤコ 
  ートを横たえた。
   青年は黙って首を横に振った。それから、彼女の栗色に染まった髪の毛にチラッと目を 
  やって、「髪染めたんだね」と言った。
  「うん、似合う?」
   若い女性は髪を、サッとかきあげた。
   手を離すと、髪はサラサラと垂れ下がり、シャンプーか何かの良い香りを残した。
  「まぁ、似合ってるよ」
   青年はそう言ってからポットに手を伸ばし、空のグラスに七杯目か、八杯目の水を注い 
  だ。
   店の主人が若い女性に水を出した。
  「ご注文は?」
  「ヒロは何する?」
   若い女性は、青年をあだ名で呼んだ。
  「僕は、塩ラーメン。奈央美なおみは?」
   奈央美と呼ばれたその彼女は、メニューを手に取ると、鼻の頭が付きそうになるくらい 
  まで、それに顔を近づけた。
  「いい加減に眼鏡にすれば?」
  「やだ」
  「じゃぁ、コンタクトとかさぁ」
  「眼に良くないんだよ、あれ」
  「ほぉ。まぁ確かに、初めて着けるときは緊張しそうだな」
   メニューと睨めっこをしながら、奈央美はしばらく悩んでいたが、結局、「あたしも塩 
  ラーメンでいい」ということになった。
  「塩二丁ね」
   店の主人は念を押してから、厨房へ消えた。
   奈央美はグラスに口を付けてから、「ホントに久しぶりだなぁ」と言った。
  「うん」
  「ヒロは、今何してるの?」
  「水飲んでる」
   グラスを湯飲みのように両手に包んで持っていたヒロは、間抜けな声でそう言った。
   奈央美はクスッと笑ってから、「見れば分かる。そうじゃなくてね、要するに大学とか、
  就職したとか――進学努力継続中とかさ」と言った。
  「あぁ、G大だよ」
  「へぇ、じゃぁ教育学部?」
  「うん」
  「ヒロの夢はガッコの先生だったもんね」
   奈央美は納得したように「そうかぁ」と頷いた。
  「別に、夢って程のもんじゃぁないけど」
   ヒロは一応、断りを入れておいた。
  「それで、もしかして一年生だったりする?」
  「いや、現役で受かったよ」
   ヒロは自慢そうに言った。
  「やるなぁ」
   感心したように、奈央美はそうこぼした。
  「奈央美は?」
  「あたしは現役K大生」
  「う、負けた」
   ヒロは少しうなだれて言った。
  「G大まで車で通ってるの?」
  「電車。免許は取ったんだけどね」
  「見せてよ、免許証」
  「別にいいけど」
   ヒロはジーンズのポケットの中から、茶色い革の財布を取り出し、免許証を奈央美に手 
  渡した。
  「ほぉ、なかなかの男前ですなぁ」
  「何とでも言え」
   奈央美のわざとらしい口振りに、ヒロはそう言った。
  「怒った?」
  「別に」
   ヒロは少しふくれっ面で言った。「それで、奈央美は免許取ったの?」
  「まぁね」
   奈央美が得意げに言う。
  「見せて」
  「やだ。写真うつりが悪い」
  「卑怯な奴だ」
   ヒロは苦笑するしかなかった。
   奈央美も一緒に屈託なく笑った。
  「ガッコはどう、楽しい?」
  「むぅ」
   ヒロはうなった。
  「何それ?」
   奈央美はまた少し笑った。
  「考えてるトコ」
  「それで?」
  「うぅん、まあまあかな。奈央美は?」
   ヒロは訊き返した。
  「あたしは楽しいかなぁ。新しい友達もできたし」
  「一人暮らしでしょ?」
  「もちろん。同棲でもしてると思った?」
  「いや、そうじゃないけど」
   ヒロは苦笑いを浮かべた。「奈央美は料理できるようになったの?」
  「料理人も真っ青」
   奈央美が自信ありげに言う。
  「そんなに上手なの?」
  「ううん、ドヘタすぎて真っ青」
  「なぁんだ」
   まぁ、そうだろうなぁとか何とか、ヒロは口の中でモゴモゴと言った。
  「あたしさ、家庭科だけは苦手だったもん」
  「そうだね」
   ヒロは相槌あいづちを打ちながら、家庭科だけは、と言いきれるところが奈央美のスゴいところ 
  だなぁ、と思っていた。事実、その他の成績はとても良かったのだ。
  「でしょ?」
   奈央美はグラスの水を口に含んだ。
   しやべりすぎて喉が渇いたのだろう。
  「ところでさぁ」
   奈央美がいたずらっぽくほほんで話を切り出した。
  「何?」
  「恋人はいるの?」
   奈央美は訊いた。
   ヒロが「さぁね」と答えるまでに少し間があった。
  「ほぉ」
   奈央美は曖昧あいまいな笑みを浮かべた。
   ヒロは、今度だけは「奈央美は?」と訊き返さなかった。
  「はい、お待ちどう」
   店の主人が二人の前に、塩ラーメンのどんぶりを置いた。
   ヒロが割りばしを二本取り、片方を奈央美に渡した。
  「どぉも」
   奈央美は礼を言ってから、パキッと割り箸を二つに分けた。
   ヒロも箸を割って、めんをすすった。
   時折、奈央美は左手の華奢きやしやな白い指先でグラスを操り、軽く小指をたてながらそれを口 
  に当てて水を飲んでいた。
   その姿が、なんだかとてもサマになっていた。
   ヒロの視線に気付いて「どうしたの?」と奈央美は言った。
  「え、いや」
   ヒロは言葉を濁した。「あの時も――」
   それ以上ヒロは言わなかったが、あの時、という言葉一つが、二人をごく自然に、二年 
  前、高校三年の冬に戻していった。
  「うん」
   奈央美は小さく頷いた。
  
  
   高校生活も指折り数える程の日数を残すだけとなっていた。
   センター試験も終わり、二次試験に備えるため受験生の多くは学校へは行かず、自宅に 
  逼塞ひつそくして勉学に励んでいる頃だった。
   しかし、一部の生徒は真面目なのか、不真面目なのかは知らないが、普段と変わらず学 
  校に顔を出していた。
   ヒロと奈央美はその一部の方に入り、毎日誘い合わせて通学していた。
   別に二人の間に特別な交際があった訳ではなくて、互いの家が近所にあり、子供の頃か 
  らよく一緒に遊んでいたという、いわゆるおさなみであった。
   ――その日は、一段と寒い、雨の夜だった。
   二人は学校帰りに、ふらりとこの中華料理店に立ち寄った。
   外気があまりにも冷たかったので、暖をとるためにラーメンでも食べようということに 
  なったのだった。
   提案したのはヒロの方だった。
   奈央美は快く賛成した。
   おごってくれるなら、という条件付きだったのだが。
   そして、ラーメンを頼んで、それをほとんど食べ終えた頃だった。
  「あたしね」
   奈央美がふいに言った。「好きな人が、いるんだなぁ」
   何の話からズレてそう言ったのだろうか。
   おそらく、もうすぐみんなともお別れだとか、そういう話題からの流れだった。
  「え?」
   ヒロは思わずそう口に出して、箸を止めた。
   照れて頬を赤く染めながら、えへへ、と奈央美は笑った。
  「ふぅん」
   ヒロはあまり感心なさそうに、そう言った。
   しかし、ヒロは内心、身体の中がジワッと熱くなるのを感じていた。
   誰だろう? とヒロは思った。
   まさか、僕のことだろうか。
   いや、そんな虫のいい話あるはずがない。そう自分に言いきかせながらも、自分のこと 
  であってほしいと願う心はどうしても消えなかった。
  「誰だと思う?」
   奈央美は照れ笑いを浮かべながら、ヒロに訊いた。
  「さぁ、解らないよ」
   ヒロは努めて平静を装いながら言った。
  「解らないかなぁ」
   スープをレンゲですくいながら、奈央美は言った。「当ててみて」
  「知らないよ、四組の奴?」
   ヒロは訊いた。
   その問いはヒロにとって、ある意味冒険であった。
   ヒロと奈央美は四組だった。
   違う、と奈央美がひとこと言えば、それまでに抱いた淡い期待がガラガラと崩れ落ちて 
  しまうような、そんな際どいものだった。
   奈央美は――コックリと頷いた。
   ヒロは息をんだ。
   四組の男子生徒は二一名。確率がかなり跳ね上がったことになる。
   何考えているんだ、僕は。ヒロは自分をいさめた。
   そんなことあるもんか。
  「当ててよ」
   奈央美はヒロをかした。
  「うぅん、じゃぁね」
   そう言ってヒロは考え込んだ。
   誰の名を挙げようか迷っていたのではない。
   ヒロが、僕かなぁ、と言ったときの奈央美の反応を想像していたのである。
   そうだよ、と奈央美があの優しい口調で言う。
   はにかみながら微笑む奈央美の顔が、ヒロはいちばん好きだった。
   しかし、そう上手くはいかないだろうなぁ、とヒロは心の中で呟いた。
   冗談きついなぁ、と言われるのがヒロは怖かったのだ。
   誠実な気持ちを、本気だと取られない程、やりきれないものはない。
   最悪のケースを想定すると、ヒロにはどうしても、僕のことかなぁ、と安易には言えな 
  かった。
  「そうだなぁ、藍沢あいざわかな?」
  「惜しい」
   奈央美は指をパチンと鳴らした。
  「何だ、惜しいって?」
   ヒロは緊張を押し隠すように、少し笑った。
  「いいから、あと二回までね」
   奈央美はそうくぎを刺した。
  「うぅん、内海うつみ?」
  「外れ。あと一回ね」
  「それじゃぁ」
   ヒロは少し考え込んだ。
   僕のこと、と訊けるラストチャンスだ。
   しかしヒロは、ややあっていずみかな?」と口に出していた。
  「違うけど」
   奈央美は言った。「なんかアイウエオ順に言ってない?」
   聡明そうめいな奈央美はヒロが挙げた名前の、その法則性に気が付いたようだった。
  「あ、バレた?」
  「もぅ、真面目にやってよ。あと二回だけチャンスをやろう」
  「仕方ないなぁ。じゃぁ」
   ヒロは考え込むふりをしながら、都合三回外したために、さらに確率が上がったことに 
  内心慌てていた。「そうだなぁ、遠藤えんどう?」
  「だから、もぅ――。怒るよ」
   奈央美はそう言ったが、実際に不機嫌そうではなかった。「あと一回だからね」
  「うぅんと、じゃぁね」
   ヒロはひどく迷っていた。
   本当に今度こそ最後の機会に違いない。
   言ってみようか。
   それとも、言わないでおこうか。
   再三の思案の末、ヒロはようやく意を決した。
  「そうだなぁ」
   言いかけてから、やっぱり止めようかという思いが沸き、ヒロは一度開いた口を閉じた。
   しかし、すぐに思い直して「解った、俺だ」とヒロは言った。
   ひどくおどけた調子だった。
   ヒロは冗談めかして言うしかないと思ったのだ。
   真剣にそう訊いて、もしも違っていたときは、お互いに何ともバツが悪い。それは避け 
  たかった。
   わざと戯れた調子で言えば、違っていてもそれで笑い話になるだろうし、万が一、そう 
  であれば、照れくさそうに笑っていればいいのだ。
   しかしどの道、違っていればヒロが傷付くことには変わりないのだが。
   ――奈央美はゆっくりと口を開いた。
  
  
  「ずっと謝ろうと思ってたんだ」
   奈央美の言葉に、ヒロは現実に引き戻された。
   目の前には食べかけの塩ラーメンが置かれていた。
  「ん、何が?」
  「だから、あの時のこと」
  「あぁ」
   ヒロは困ったような表情を浮かべた。「うぅん。もとはと言えば、僕が悪かったんだか 
  ら」
  「そんなことない」
   奈央美が少し口調を強めた。
   閑散とした店内では、ひどく大きな声に聞こえた。
  「あたし、ヒロのこと」
   奈央美は言いにくそうに言葉を切った。「すごく傷付けたと思う」
   ヒロは何も言わなかった。
  「ごめんなさい」
   うつむいて、奈央美は消え入るような小さな声で、しかし確かにそう言った。
  「奈央美――」
   ヒロはかける言葉も見当たらなくて、そう言ったきり黙ってしまった。
   二人が黙ってしまうと、店内はまさに静寂に包まれて、テレビのクイズ番組から流れる 
  ボリュームを絞った小さな音が聞こえるだけだった。
   奈央美が口を開いた。
   何か言いかけたが、言葉がすぐに出てこないようだった。
  「あたしね」
   奈央美は言った。「ヒロがあたしのことを、想っていたなんてね。全く気が付かなかっ 
  たから」
   奈央美はグラスに指をかけた。
   飲みかけたグラスを口ところで止め、カウンターの上に再び置いた。
  「今日もね、ヒロに誘われて――すごく迷った。会いたかったけど、会わせる顔がなくて」
   奈央美は少し間をおいてから言った。「でも、今日会っておかないと――残っちゃうか 
  ら。すごく遅れちゃったけど」
  「急に連絡して、悪かったね」
  「うぅん」
   そう言ったきり、二人は何となく黙り込んだ。
   黙ったまま、ラーメンをすすることに専念していた。
   結局、食べ終わるまで、二人は一度途切れた話のきっかけがつかめなかった。
   どちらともなく、深いめ息が漏れた。
   奈央美は「どうしたんだろう」と首をかしげた。
  「あたしたち今まで、話が途切れた事なんて、一度もなかったのにね」
   奈央美が言った。「親友、だったのにね」
   親友、か――。
   ヒロは思った。本当に僕たちは親友だったのだろうか。
  「やっぱりあの時、すれ違っちゃったのかな?」
  「ねぇ」
   ヒロが言った。「僕たちは、もしかすると、最初から親友じゃなかったのかもしれない」
   奈央美は少しだけ傷付いた顔をした。
   それから、悲しそうに笑った。
  「どうして?」
  「どこまでがただの友達で、いったいどこからが親友なのか、よく解らないけれど、もし 
  も、隠し事をせずに何でも言い合えるのが親友だとすると」
   ヒロはそこで言葉を一旦、区切った。「僕は、奈央美を親友だと思っていなかったこと 
  になる」
   奈央美は何も言わなかった。
   ただ、ヒロの言葉を待っていた。
  「奈央美は、きっと僕のことを親友だと思ってくれていたんだね。だから――」
   言いかけて、ヒロは鼻の奥がツンとなるのを感じた。「好きな人ができたときも、真っ 
  先に僕に言ってくれたんだよね。だけど――」
   言葉がかすれていた。
   多分、泣きそうな顔をしているなぁ、とヒロは自分で思った。
  「だけど?」
   力無く奈央美は訊いた。
  「だけど――僕は言えなかった。奈央美のこと、好きだったこと」
   奈央美は俯いて、床に視線を落とした。
   長い髪が前の方に垂れ下がった。
  
  
  「冗談きついぜ」
   奈央美はそう言った。
   あ、やっぱりな、とヒロは思った。
   覚悟はしていたから、何かこみ上げてくるものは、それ程なかった。
   ただ、あるとすれば、言わなければ良かったな、という後悔の念だったろう。
  「真面目にやってよね」
   奈央美はプクーッとふくれっ面になった。
   本気で言ったんだけどなぁ、とヒロは情けない気分になった。
  「あのね、あたしね、村瀬君が好きなんだ」
   奈央美は恥ずかしそうに言った。「ヒロも仲良いよね?」
   奈央美の言葉通り、ヒロと村瀬は仲が良かった。
   しかし、ヒロは気付いた時には、「別にそれ程」と言っている自分がいた。
  「へぇ、仲が良いのかと思ってた」
   奈央美は不思議そうにそう言った。
  「まぁ、そうかもしれない」
  「そうだよね。ねぇ、カッコ良いと思わない?」
  「そうかなぁ」
   ヒロが言うと、奈央美の顔がわずかに曇った。
  「カッコ良いよ、ヒロよりかは」
  「それは――そうだろうけど」
   ヒロはあえぐように言うと、少し俯いた。
  「頭も良さそうだし」
  「僕よりはね」
   半ば、自棄になってヒロは言った。
  「スポーツも得意」
  「そりゃぁ、僕よりはね」
  「ギターが弾ける」
  「何て言ったって、僕は弾けないからね」
   ヒロは言いながら、果たして自分が村瀬に勝っているものが、ひとつでもあるのだろう 
  か、という劣等意識をひしひしと感じていた。
  「――怒ってるの?」
  「そうかもしれないね」
   好きな人のことを誰かに話すのは、とても気持ちの良いものだろう。
   ヒロ自身、例えば自分が好きなミュージシャンなんかのことを誰かに話して聞かせる時 
  は、本当に気分がいい。
   だから、奈央美の気持ちは良く分かった。
   しかし、せめて自分に対してはやめて欲しいという思いをヒロはみしめていた。
  「ヒロを引き合いにしたのは、悪かったけど」
   奈央美はバツが悪そうに言った。
  「もういいよ」
   ヒロはにっこりと笑って見せたが、それはどことなく、ぎこちのないものになった。
  「――あのね、それでね」
   奈央美は言いにくそうにしながら、「村瀬君に渡して欲しいものがあるんだけど」と上 
  目遣いにヒロを見た。
   それから、奈央美はバッグから手紙らしきものを取り出した。
  「なんじゃぁ、こりゃぁ」
   ヒロは『太陽に吠えろ』のジーパンが今わの際に吐いた台詞よろしく、そう叫んだ。
  「見れば分かるでしょ」
   それは、当然果たし状なんかではなく、ラブレターというものだった。
  「自分で渡せよ」
  「やだ」
   あっさりと奈央美は言った。「ヒロから渡してよ」
  「何でだよ」
  「いいじゃん」
   押し問答をさんざん繰り返したあげく、ヒロの方が折れ、引き受けることになってしま 
  った。
   ――ドアの鐘を鳴らして、一人の少年が店に入ってきた。
   それが村瀬だった。
   村瀬はヒロにチラッと目を合わせ、気を遣ってか二人と距離を取り、カウンター席の右 
  端に座った。間に椅子が三つあった。
  「ねぇ」
   奈央美がヒロにささやいた。「渡してきて。今」
   ヒロは溜息をついてから、「いいよ」と言った。
   そして、ヒロは席を立って村瀬に歩み寄り、手紙を差し出した。
  「これ、奈央美から」
   村瀬は手紙を目にしても、それとはすぐに解っていない様子だった。
   それから、げんそうにヒロを見つめた。
   ヒロは、この様子は駄目かな、と思った。しかし、迷惑だと思っても、本人がいるんだ 
  から黙って受け取るもんだろうよ。
   だが、その直後に村瀬が放った言葉で、ヒロはその怪訝がどこから来ていたのか、よう 
  やく分かった。
  「何で――お前が?」
   村瀬はそう言った。
   ヒロは瞬いてから、その目を見開いた。
   ヒロはいつか村瀬にだけは話していたのだ。自分は奈央美にれていると。
   村瀬はそのヒロが、当の奈央美に頼まれてラブレターを渡しに来たという、そのことに 
  驚いていたのだ。
   傷付くのは自分だけでいい、とヒロは思っていた。しかし、その胸の内を、村瀬に見ら 
  れてしまった――。
   ヒロは呆然としながらも、手紙を村瀬に押しつけ、二人分のラーメンの代金をカウンタ 
  ーの上に置くと、傘も差さずに降りしきる雨の中に飛び出していった。
   雨はみぞれに変わり、やがてゆっくりと雪になっていった。
  
  
   閉店間近の店のカウンターに、ヒロは頬杖をついて腰を下ろしていた。
   店の中には、主人を除けば、ヒロの他にはもう誰もいない。
   奈央美は既に帰った後だった。
   つけっ放しのテレビの音と、店の主人が洗い物をする音とが、重なり合って静かに聞こ 
  えていた。
   ヒロには奈央美のことが、ひどく懐かしいような、そんな風に思えていた。
  「村瀬よぉ」
   ヒロは独りちた。
   しかし何故お前は、一度でも奈央美に好かれることができたんだ?
   それは努力でどうにかできた問題なのか?
   いやいや、違うんだろうなぁ、きっと――。
  
  
  「好きなんだ」とヒロは言った。「今でも――」
   いつかのようにおどけた調子ではなく、ヒロの瞳は奈央美を真っ直ぐに見つめていた。 
   奈央美は、悲しそうな笑みを浮かべた。
   それから、奈央美はゆっくりと首を横に振った。
  「ヒロ――。私もね、ヒロにずっと言えなかったことが、あるのね。今日も言えなかった 
  けれど、言うね――」
   奈央美は俯いたまま、途切れがちの言葉でそう言った。「私ね、本当はね、高校の時か 
  ら気付いてたんだ。ヒロが、私のこと好きだったこと――」
  
  
   頬杖を外してヒロは、もう帰ろうかと丸めて置いてあったコートに手を伸ばして、ふと 
  窓ガラスに映った自分の姿に目をとめた。
   間抜け面をぶら下げたもう一人の自分が何か寂寥せきりよう感を背負ってヒロを見つめ返し
  いた。
   ヒロは窓ガラスの自分に対して、バカヤロウと小さな声で言ってやった。
   窓ガラス越しに、夜の町にふんわりと月明かりが落ちているのが見えた。
   それは、少しもロマンティックに見えなくて、何だか物悲しかった。
   ヒロは夜景から目を離した。
   コートを羽織りながら、ヒロは内ポケットの財布をまさぐった。
   勘定を取り出し、カウンターの上に置いた。
   それからヒロは席を立った。
  「学生さん」
   帰りがけのヒロに店の主人が声をかけた。「今夜は自棄酒になりそうかい?」
  「はい」
   ヒロはそう答えて、冬の空の下に出た。
   なんだか、急に村瀬に会いたい。
   そう感じていた――。
  
                                       終わり