受験戦争を終えた僕は、その年の春から県 
  下の雨林大学に通うことになった。
   雨林大学は名門と言えたほどではないけれ 
  ど、県外にもそれなりに名の知れた私立大だ 
  から、名前くらいなら聞いたことがある人も 
  多いと思う。
   目抜き通りから北に8キロほど郊外に向け 
  て車を走せ、やがて赤煉瓦の西洋建築が見え 
  てきたら、それが雨林大学のキャンパスだ。 
   キャンパス前に構える緑の正門を抜けると、
  舗装された道が両脇の鈴掛並木に見守られる 
  ように真っ直ぐに走っている。
   左手には学生食堂前の芝生を敷いた庭が見 
  える。青々とした綺麗な芝生には、東屋ガゼボや小 
  さな丘などがあって、天気のよい日などは、 
  食堂の席につかず、トレイ手に表に出て
  人と並んで丘に腰を下ろして食事をする学生 
  も多い。
   舗道は講義棟まで真っ直ぐ伸びているのだ 
  けれど、直接、車でそこまで乗りつけること 
  はできない。右手の学生図書館が間近に見え 
  てくる辺りに車両止めがあって、そこから右 
  に折れた先に駐車場がある。
   もっとも、学生人数分の駐車場が用意され 
  ている訳ではない。車を停めることができる 
  のは、大学に申請をして駐車許可が下りた学 
  生だけである。
   許可が下りるのは主に遠くから通う学生で、
  あとは裕福な家庭の子息だという噂である。 
  私立大なのだからわからない話ではない。申 
  請が下りなかった学生で、どうしても車で通 
  いたい者は、仕方なく近くの月極駐車場を借 
  りていたらしい。
   僕は雨林大学へは近くの学生寮から通って 
  おり、そもそも、当時はまだ自動車免許を得 
  ていなかったっから、駐車場の問題で困った 
  ことはなかった。
   だから、駐車許可申請にどういった書類や 
  手続きが必要なのか、実は詳しいことは知ら 
  ない。手続きの存在を知っているだけである。
   正門から真っ直ぐに延びる舗道は、時計台 
  のある講義棟の前で左右に分かれる形で止ま 
  る。キャンパスの外からも見える赤煉瓦の建 
  物である。
   教養棟と呼ばれる施設で、一般教養の講義 
  が開かれるため、学部を問わず、どの学生も、
  主に一年生の時に必ず何コマかはこの棟で講 
  義を受けることになる。二年生からは、単位 
  の取りこぼしがない限り、訪れる機会がめっ 
  きり減ってしまう棟である。
   僕が普段お世話になっている文学部の講義 
  棟は、教養棟から右に折れた先の、図書館の 
  裏手の方にある。大学ともなれば、文系理系 
  を問わず書籍は欠かせないが、雨林大学は文 
  学部の力が強かったらしく、図書館を利用す 
  る上でいちばん便利な棟をもぎ取ったという 
  話である。
   法学部や商学部など他の文系の他学部の棟 
  もそちらにある。
   反対側、教養棟前の道を左に折れた先には 
  理学部や工学部の講義棟がある。もっとも、 
  僕ら文学部の学生が足を運ぶ機会は本来はな 
  い。
   けれど――。
   僕は、訳あって何度も左の道を行った先、 
  理学部棟へと足繫く通うことになる。
   それは、入学してまだそれほど日が経たな 
  い前期のとある講義に端を発する。
   もしも、あの講義を取っていなければ――、
  いや、あの日、偶然、窓際の席を選んでいな 
  ければ、僕が理学部棟を訪れる機会は、その 
  先の四年間、一度としてなかっただろうと思 
  う。
   それどころか、僕のキャンパスライフだっ 
  て、きっと、まったく別のものになっていた 
  はずである。
   それはよくわからない哲学の講義で、ひど 
  く退屈な内容だったけれども、そうしたこと 
  はこの際あまり関係がない。
   全ては、あの退屈だった講義から始まった。
   僕には、今でもそんなふうに思えてならな 
  い。
  
  
   ふと窓の外を見れば、空きコマを持て余し 
  たらしい学生たちが遠く、先の芝生の上で戯 
  れているのが見えた。
   二年か三年の先輩だろうか。
   学部・学科を問わず、一年は授業が詰まっ 
  ていて、空きコマなんてそうそうできやしな 
  いし、四年生は就職活動やら卒業論文やらに 
  追われているらしく、構内ではあまり見かけ 
  ない。
   昼下がりのキャンパス。
   爽やかな初夏の日差しの下で、白樺の木が 
  揺れる芝生の中に設けられた東屋の柱の間を 
  縫うようにしながら、彼らは互いに追いかけ 
  合い、逃げ惑い、そうやって駈けずり回って 
  いた。
   耳を澄ませれば、遊びに混ざった女子の一 
  際高い喚声が、少しだけ聞こえてくるような 
  気がした。
   おそらく、鬼ごっこか何かだろう。
   遠目には彼らが興じる遊びの内容までは詳 
  しくは見て取れなかったけれど、そうした児 
  戯の類いのように思われた。
   何を大学生にもなって――、と思われる向 
  きもあるかもしれないが、存外、大学生とい 
  うのは高校生と比較して、しばしば幼さのよ 
  うなものが見受けられる。
   まず、ようやく受験を終えた後の言い知れ 
  ぬ解放感があるし、どれほど自由を満喫して 
  いたって、高校までとは打って変わって、教 
  員からとやかく言われることもない。
   入学当初、文学部の主任教授から「高校ま 
  でとは違い、誰も勉強しろとは言ってくれな 
  い。君たちに学ぶ気がなければ、何も学べず 
  に卒業を迎える。それが大学という場所だ」 
  といった内容の有難いお言葉を頂戴したが、 
  彼の口からそうした小言を聞くのは、それが 
  最初で最後のことであった。
   主任教授の言葉を右の耳から左の耳へと聞 
  き流しながら、高校時代にいた口うるさい生 
  徒指導の教諭の姿と重ねて見ていただけに、 
  何だか肩透かしではあった。
   そのたった一度だけの小言を胸に刻み込む 
  ことのなかった僕は、男子校出身だったこと 
  もあり、同年代の異性が当たり前のように近 
  くにいる環境は、自然と浮かれずにはいられ 
  なかった。
   入学前などは、まだ見ぬキャンパスライフ 
  にどれほど胸を躍らせたことか。
   もしかしたら、長い黒髪を風に靡かせなが 
  ら真っ赤なオープンカーを乗り回すような、 
  美しい先輩と激しい恋に落ちたりするんじゃ 
  ないかとか、そんな愚かな妄想を一度もしな 
  かったといえば嘘になる。
   実際、その妄想は、あながち何から何まで 
  間違っていたわけでもない。
   その年の春、僕が出会った女の先輩は――。
   まァ、確かに長い黒髪の持ち主には違いな 
  かった。
  
  
   窓の向こうの景色から目を離した僕は、呆 
  けていた間にすっかり取り忘れていた板書内 
  容をノートに書き写すために、視線を講義室 
  の長机の上に落とした。
   その時――、僕の視界に一頭の蝶が飛び込 
  んできた。
   もっとも、飛び込んできたというのは比喩 
  であって、本物の蝶ではない。
   右隣りに座っていた学生が、自分のノート 
  に描いた落書きの蝶である。
   いや、しかし――、落書きと呼ぶには、そ 
  の絵は似つかわしくなかった。
   まず、ノートの片隅ではなく堂々と一面に 
  描かれていたし、ぴんと伸びた二本の触角の 
  具合や、後ろに突起のある翅の質感、その下 
  から姿を覗かせる昆虫の腹といい、節のある 
  六本の足といい――、そのどれもがあまりに 
  精緻に描かれ過ぎた蝶のデッサンであった。 
   綺麗だ――、と僕は思った。
   美術科の学生だろうか。
   絵はまだ完成しておらず、隣りに座るその 
  学生は、伸ばした小指で筆圧を殺すようにし 
  て握る4Bの鉛筆を、僕の見ている横でしきり 
  に動かしていた。
   鉛筆を握るその手が、透き通るように白か 
  った。
   僕は思わず、視線を上げてその精緻なデッ 
  サンの描き手を思わず見つめてしまった。
   思った通り、女の人だった。
   白く華奢な手からは、その持ち主が容易に 
  想像がついた。
   長い黒髪の女の人。
   ゆうに腰まではあるんじゃないかと思われる 
  くらいに長く伸ばした漆黒の髪が、窓から差 
  し込む日差しに照らされて艶やかに光ってい 
  た。
   絵を描く時に前に垂れて邪魔になるのか、 
  その髪を搔き揚げて耳に挟むようにして肩の 
  後ろに流していた。
   流れるような黒髪は、しかし、すぐにサラ 
  サラと垂れてしまい、彼女はその度にそれを 
  耳の上に搔き揚げるのだった。古文の講義で 
  髪を耳に挟むのは平安時代は行儀が悪いとさ 
  れていたと教授が言っていたのを思い出した 
  が、現代人の僕にはその仕草はただ大人びて 
  見えた。
   彼女がそんなふうに髪を耳に挟んでいる間 
  だけ、僕は蝶のデッサンと彼女の横顔を見る 
  ことができた。
   その横顔は彼女の手よりもまだ白い肌をし 
  ていたけれど、それは、厚めに塗った化粧の 
  せいでもあって、少しケバいといったらいい 
  のか、実際、僕よりも年上に感じられた。
   それでいて服装は派手ではなく、グレーの 
  ブラウスの中は黒いシャツ、下には色褪せた 
  ジーンズを履いていた。
   どことなく、雰囲気も落ち着いているよう 
  に思われて、あるいは、取りこぼした単位を 
  拾いに来ている先輩かもしれなかった。
   そんなことを想像していると、ふいに、そ 
  れまでノートを一心に見つめていた彼女の瞳 
  が、僕の方を見返してきた。
   悪戯を見つかった子供のように、僕は、ど 
  きり――、として身を縮めた。
  「何――?」
   彼女は、訝るような声で小さく僕に尋ねた。
   僕はまごついて何も答えられないまま、視 
  線を逸らして、自分の真っ白なノートの上に 
  しょんぼりと視線を落とした。
   俯いた視界の端に、彼女がまだ怪訝そうに 
  こちらを見つめているのがわかって、僕はい 
  っそう小さくならざるを得なかった。
   それでも、やがて彼女が僕から視線を外し 
  たのが窺い知れて、僕はようやく心の中でほ 
  っと息をついたのだが――。
  「痛ッ!」
   突然、チクリ、と身体に痛みが走って、僕 
  は思わず声を上げていた。
   見れば、長机の上でノートを取るふりをし 
  ていた僕の右の二の腕を、あろうことか例の 
  彼女が鉛筆で突いたのだ。
   それも、先ほどまでデッサンで使っていた 
  柔らかい4Bの芯の鉛筆ではなくて、筆入れか 
  らわざわざ取り出したらしい、硬い9Hの鉛筆 
  である。
   それは削ったばかりらしく、先端がこれで 
  もかというくらいに尖っていた。
   第一、鉛筆にそんな硬度があるのを、僕は 
  その時初めて知った。
   僕は呆然としながら、彼女を見つめた。
  「何なの?」
   ドスの利いた声で、彼女はもう一度、僕に 
  訊いた。
   どうやら、早急に返答をしなければならな 
  いらしい。
   さもないと、講義が終わるまでに、僕の二 
  の腕はきっと蜂の巣のようにされてしまうに 
  違いない。
  「いえ――、別に、何でもないです――」
   その答えが、どうやら充足ではないらしい 
  ことを、彼女の不機嫌そうな表情から読み取 
  った僕は「ただ――」と言葉を繫いだ。
  「綺麗だな、と思って――」
  「え?」
   僕の言葉に、彼女は驚いたようにニ、三度 
  瞬いた。
   それから、彼女は何度目かわからないけれ 
  ど、はらりと垂れた長い髪を、落ち着かない 
  素振りでまた耳の上に搔き揚げた。
  「何――?」ともう一度彼女は言った。「口 
  説いてるの――?」
   戸惑いながら尋ねる彼女に、僕は素直に答 
  えた。
  「いや、絵が、ですけど――」
   彼女は――、勘違いに気づいて、少しだけ 
  耳を赤くした後、その気恥ずかしさを僕にぶ 
  つけるかのように、キッと目を吊り上げた。 
   どうやら、余計に機嫌を損ねてしまったら 
  しい。
   僕は仕方なく「いや、やっぱり両方――」 
  と言い直してみたが、時すでに遅く、彼女は 
  今にも嚙みつきそうな顔になって僕を睨んで 
  きた。
   あるいは、上手だな、という言い方をして 
  いれば、こんな事態にはならなかったかもし 
  れない。
   僕は少しだけ後悔した。
   しかし――。
   クスッ、と彼女が笑った。
   それから、ひとしきり僕を観察するように 
  眺めた後で、彼女は「君、面白いね」と言っ 
  たのだ。
   おかげで、僕はすっかり拍子抜けしてしま 
  った。
  「一年生?」
   彼女の問いに、僕は一度、教壇を少しだけ 
  気にした後、声を潜めて会話を続けた。
  「そうですが――」
  「名前は?」
  まつざき、ですけど――」と僕は名乗った。
  「下の名前は?」
  しゆういちです」
  「秀一君ね」
   確認するように、僕の名前を一度そう繰り 
  返した後、「私はきりやまさとと彼女は自分の 
  名を名乗った。
  「四年生だよ」と彼女――、桐山先輩は、自 
  分の学年をつけ加えてから、「秀一君は、私 
  の絵を見て綺麗だと思ったの?」と早速覚え 
  たばかりの名前を使って僕に尋ねた。
  「はい――、そう、思いました」
  「こういうの、嫌いじゃないんだ?」
  「まァ――、絵とかは、わりと好きな方です 
  けど――」
   僕は口ごもりながらも、正直にそう答えた。
   実際、僕の趣味は読書と絵画鑑賞だった。 
  「好きなんだ――?」
   桐山先輩はジーンズを履いた足を組んで自 
  然に身体を近づけるようにしながら、挑発的 
  な瞳で僕に訊いてきた。
   まるで、彼女本人のことを好きかどうか尋 
  ねられているような錯覚に陥って、僕は、ご 
  くり――、と生唾を飲み込んだ。
  「あの――、はい」
   僕がどうにか声を絞りながら答えると、桐 
  山先輩は「へぇ――」と人を小馬鹿にするよ 
  うな表情を見せた。
   そして、彼女はこう言ったのだ。
  「これ、蛾だよ?」
  「蛾――?」
   僕は思わず聞き返していた。
  「うん。 アゲハモドキ――」
   アゲハモドキ、というのが、ノートに描か 
  れた蝶――、もとい、蛾の種類らしかった。 
  「何で、そんなの――、描いてるんですか― 
  ―?」
   困惑しながら尋ねた僕に、桐山先輩はあま 
  りに自然に答えた。
  「だって、可愛いじゃん」
   赤いルージュを差した唇の端を少しだけ上 
  げて、桐山先輩は不敵に微笑んだ。
   その眼差しに、僕は背筋が凍る思いがした。
   関わってはいけない人に関わってしまった 
  ――。
   僕は、内心でそう思わずにはいられなかっ 
  た。
  
  
   僕のそうした思いをよそに、それからとい 
  うもの、桐山先輩は僕を見かける度に向こう 
  から声をかけてくるようになった。
   桐山先輩は理学部生物科の学生だった。
   無類の蛾の愛好家で、卒業研究でも蛾をテ 
  ーマに選んで論文を書いているそうだ。
   研究室では蛾を大量に飼育しているらしく、
  昨年の夏などは、彼女が研究室に置いていた 
  蛾の飼育箱の蓋を、二年生がうっかり開けて 
  しまって、室内をおびただしい数の蛾が飛び交う 
  騒ぎになったという。僕ならトラウマになり 
  そうな事件である。
   そんな桐山先輩にどういうわけか僕は気に 
  入られてしまったらしい。
   桐山先輩が僕を夕食に誘ってきたのである。
  「めんそーれ」とかいう名前の沖縄料理店の 
  二割引きのクーポンをもらったとかで、僕に 
  ご馳走してくれるという。
   僕は迷った末、承諾した。ただで食事にあ 
  りつけるというのは、貧乏学生にとっては魅 
  力的な提案だった。味がよいと評判の店だっ 
  たこともある。
   大学からは少し遠いので、桐山先輩は車で 
  僕を連れて行ってくれた。
   彼女が免許を持っている話は、何かの時に 
  聞いていた。実は、例の駐車場の申請やら何 
  やらの話は桐山先輩から聞かされたのである。
   桐山先輩の車は、真っ赤なオープンカーな 
  んかではなくて、可愛らしい丸いフォルムの 
  白い乗用車だった。
   僕は車に詳しくなかったから、車種までは 
  わからなかった。
   桐山先輩の運転は、すごく慎重というか― 
  ―、同学年の友人が運転する時のような強引 
  さのまるでない、穏やかなそれだった。
   桐山先輩の車に乗る前まで、僕はどちらか 
  といえば自動車は男が運転する乗り物だと決 
  め込んでいたけれど、女の人が運転する車の 
  助手席に座って、片手でハンドルを切ったり、
  上目遣いにミラーを眺めたりする時の仕草を 
  隣りで見いてるのも、それはそれで悪くない 
  ものだと思った。
   予約して店に入ったので、僕たちは並んで 
  待たされることなく、テーブルにつくことが 
  できた。
   僕はラフテー丼、桐山先輩はタコライスを 
  注文した。
  「沖縄といえばさ――、やっぱり、ヨナグニ 
  サンだよね」
   タコライスをつつきながら、桐山先輩が僕 
  に言った。
  「ヨナグニさん? 誰ですか――?」
  「蛾です」
  「蛾でしたか。普通に人名かと思いました」 
   一瞬、タレントか誰かのこと言っているの 
  思ったが、桐山先輩に限ってそんなことはな 
  いのである。
  「日本最大の蛾だよ。翅を広げたら――、そ 
  うだなァ、この丼くらいになるのかな」
   桐山先輩はタコライスの丼の円周のおおよ 
  そを指で測るようにして、僕に解説してくれ 
  た。
  「色は――、そのラフテーみたいな色かな」 
   桐山先輩は、僕がまさに口に運ぼうとして 
  いたラフテーを指差しながら言った。
  「他の蛾の多くもそうだけど、ヨナグニサン 
  の成虫は口が退化していて餌を食べられない 
  んだよね」
   そのまま桐山先輩の話を聞いていると食欲 
  が減衰してしまって、こっちまで食事をでき 
  なくなりそうだったので、僕は強引に話を変 
  えた。
  「――ところで、先輩。ヘルマン・ヘッセっ 
  て知ってますか?」
   桐山先輩は、自分の話を遮られて少しだけ 
  表情を曇らせた。
  「知らない。何それ?」
  「ドイツの作家です。『車輪の下』とか『デ 
  ミアン』とか、読んだことありませんか?」 
  「ないと思うけど。有名な人?」
  「わりと有名だと思いますけど。『少年の日 
  の思い出』とか――」
  「さァ。私、少年だったことないからわかん 
  ないや」
  「いや、それはそうなんでしょうけど――。 
  そうじゃなくて、中学校の時とか、国語の教 
  科書に載っていませんでした?」
  「覚えてないなァ――」
   桐山先輩は思い出す気さえない様子でそう 
  答えた。
   あまつさえ、非難めいた調子で「で、何で 
  そんな話なの?」と僕に言った。
   普段、自分の方は好きなだけ蛾の話を人に 
  聞かせておきながら、ずいぶんな態度である 
  が、一応、先輩なのでそこは黙っていること 
  にした。
  「いや、その『少年の日の思い出』の中に、 
  クジャクヤママユっていう蛾が出てくるんで 
  すけど――」
   あるいは、ご存知の向きもあるかもしれな 
  い。
   ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』 
  は、蝶や蛾の収集家だった少年〝ぼく〟が、 
  美しく珍しい蛾であるクジャクヤママユを友 
  人のエーミールから盗もうとして誤まって握 
  り潰してしまう。エーミールに謝罪をするも 
  のの、彼から軽蔑された〝ぼく〟は、自分の 
  蝶蛾のコレクション全てを自らの手で壊して 
  しまう。そんな話である。
   僕としては、わりと先輩が興味を持ちそう 
  な話題を振ったわけである。
  「すごく綺麗に描写されているから、どんな 
  蛾なのかなァとふと思って――」
  「ああ、クジャクヤママユ?」
   蛾の名前が出て、桐山先輩はようやく聞く 
  耳を持って、「先にそれを言いなさいよ」と 
  僕を軽く睨んだ。
  「私、飼ってるよ。研究室だけど、今度、見 
  にくる? この前、羽化したばかりだよ」
   どうやら、研究室で蛾を飼育しているとい 
  うのは本当らしい。
  「僕、他学部なんですけど、いいんですか?」
  「いいと思うよ。サークルとかで出入りして 
  いる人もいるし」
   そんな理由から、僕は理学部棟に足を運ぶ 
  ことになったのだけれど――。
  
  
   理学部の二階の隅に、生物科の研究室はあ 
  った。
   日の当たらない、北向きの部屋だった。
   青鈍あおにび色をした壁には染みがあり、壁の手前 
  には窓際を除いて、どこも丈のある木棚がず 
  らりと置かれていた。
   棚には多分、生物を飼育している籠でも入 
  っているのだろう。もしかしたら、実験用の 
  マウスとかもいるのかもしれない。
   タイル張りの床に据えつけられる形で、黒 
  いゴム製の甲板こういたの実験机が六台ほど並んでい 
  て、その内、窓際の一台の周りに、三人の学 
  生の姿が合った。
   桐山先輩と同じ研究室の所属であろうか。 
   くつろいだ雰囲気で、一人は実験机の上に 
  胡坐をかき、一人は窓にもたれ、もう一人は 
  パイプ椅子を傾けて座っていた。
   しかし、桐山先輩が研究室に入っていくと、
  それまで部屋で談笑していたのが嘘のように、
  ぴたり――、と会話をやめ、三人はそそくさ 
  と部屋を出て行ってしまった。
   それでいて、後から部屋に入った僕の存在 
  は、少なからず、彼らの興味を惹いたらしい。
  彼らはそれぞれ、僕の顔をチラリと見た後、 
  部屋を出てから何やらひそひそと話しながら 
  廊下を歩いていった。
  「ごめんね」
   桐山先輩が僕に背中を向けたまま謝った。 
  「何で――、先輩が謝るんですか?」
  「別に。何となく」
   桐山先輩は素っ気なく答えた。
   もしかしたら、同じ研究室のメンバーとあ 
  まり上手くいっていないのかもしれない。
   もっとも、彼女から言い出しでもしない限 
  り、あれこれと詮索するのはよくないと僕は 
  思い、何も聞かなかったから、それ以上のこ 
  とはわからなかった。
  「クジャクヤママユだっけ?」
   桐山先輩が、棚に収めらたプラスチックケ 
  ースの虫籠の中から一つを取り出して、それ 
  を近くの実験机の上に置いた。
   彼女に手招きをされて、僕はゆっくりと虫 
  籠に歩み寄った。
   そして、僕が恐る恐る覗き込んだ虫籠の中 
  にいたそれは――。
   どうひい目に見ても、グロテスクだった。 
   ヘルマン・ヘッセの文章のしっとりした加 
  減からは到底想像もつかない。もっとも、僕 
  はドイツ語は解さないので、読んだのは訳者 
  のそれなのだけれど、いずれにしても、普段、
  灯火に群れる蛾とさして変わりない生物が、 
  プラスチックケースにへばりつくように止ま 
  って、目玉模様のある四枚の翅を広げていた。
   いや――、あるいは、桐山先輩の冗談か何 
  かで、これはただの何の変哲もない蛾なので 
  はないか。
   次に本物のクジャクヤママユを見せてくれ 
  るのではないか。
   しかし、そんな僕の淡い期待は、すぐに打 
  ち砕かれた。
  「これがクジャクヤママユだよ」
   桐山先輩は残酷にもそう宣言した。「でも、
  オスだからつまらないけどね」
  「オスは、駄目なんですか――?」
   僕は平静を装いながら、桐山先輩に尋ねた。
  「うん。オスは触角とかふさふさしてるから、
  まァ可愛いんだけど、でも、メスだったらフ 
  ェロモンを出すから、オスが何十頭も寄って 
  くるよ」
   桐山先輩の説明を聞きながら、僕はせめて 
  目の前にいるこいつがオスだっただけでも救 
  いなのかもしれないと思っていた。
  
  
   桐山先輩から絵画展に誘われたのは、それ 
  から一週間くらい後のことだった。
   市民会館で開かれた小さな絵画展で、入場 
  は無料だった。もっとも、展示されているほ 
  とんどの作品は素人が出展したもので、お金 
  を取るほどの出来ではない。
   そんな中で、僕が思わず足を止めた絵があ 
  った。
   淡い色使いで描かれた水彩画なのだが、そ 
  の題材が蛾だったのである。
   白い蛾だった。目と腹部の斑点の黒と、背 
  中の斑点と肢の腿節のだいだいを除くと、あとは 
  雪のように真っ白だった。
   指先に翅をはばたかせて止まる瞬間を切り 
  取ったもので、動かない絵の中に、その動き 
  がよく表現されているように僕には思えた。 
   額縁の下のプレートには「シロヒトリ」と 
  題名が書かれていた。
   出展者の名前は、当然のように「桐山聡美」
  と記されていた。
   桐山先輩が僕を絵画展に誘ったのは、どう 
  やら、彼女の作品が展示されていたからのよ 
  うだった。
  「どうかな?」と桐山先輩が僕に尋ねた。
  「先輩らしくていいと思います」と僕は答え 
  た。「それにしても、綺麗な蛾ですね」
   ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』 
  に出てくるクジャクヤママユよりも、桐山先 
  輩の絵に描かれているシロヒトリの方がよほ 
  ど美しい蛾のように僕には思えた。
  「この蛾も飼っているんですか?」
  「去年、飼っていたんだけれど、成虫は寿命 
  10日くらいだから、もう死んじゃった」
  「そうなんですか――」
  「でも、今年も飼っているよ。まだ毛虫だけ 
  ど。シロヒトリには毒がないから手で触れる 
  よ。手の平に乗せると丸くなって可愛いんだ。
  今度、見においでよ」
   変な人だと思っていた。
   でも、こうして一緒にいると、桐山先輩は 
  少し他の人と違っているだけの、可愛い女の 
  人だった。
  
  
   シロヒトリの毛虫は、夏休みに入る少し前 
  の七月頃には繭になった。
   八月に最初の一頭が羽化した時、僕は桐山 
  先輩と一緒にその瞬間を見守った。
   深夜近くに繭をゆっくりと破って現れたシ 
  ロヒトリの成虫は、じっとしたままで湿った 
  翅を乾かしていた。
   数時間が経って、ようやくのように翅をは 
  ばたかせた時、僕は思わずほっとして桐山先 
  輩に笑いかけていた。
   その数日後に、もう一頭が羽化した。
   先に羽化していた一頭目はメスで、二頭目 
  はオスだった。シロヒトリの成虫は、メスの 
  方が少し大きかった。体内にたくさんの卵を 
  作るので、蛾に限らずとも、昆虫はわりとそ 
  ういうものらしい。
   雌雄のシロヒトリが揃ったので、桐山先輩 
  は僕にシロヒトリの交尾を見せてくれた。
   桐山先輩の手で同じ飼育箱に移されたオス 
  のシロヒトリは、少し年上のメスのシロヒト 
  リのフェロモンに誘われて、すぐに恋に落ち 
  たようだった。
   それから、背を向けて尻を合わせた二頭の 
  シロヒトリは翅で作った白い菱形ふすま
  下で一時間以上も愛し合っていた。
  
                   終わり